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舞台

2018年7月 2日 (月)

銀河鉄道999 〜GALAXY OPERA〜 6/27 18:30、6/30 12:00 東京千秋楽

@明治座
27日: B席 3階正面1列目
30日: A席 2階左側1列目

星野鉄郎: 中川晃教 メーテル: ハルカ
機械伯爵: 染谷俊之 リューズ: 矢沢洋子
シャドウ: 雅原慶 クレア: 美山加恋
車掌: お宮の松
大山トチロー: 入野自由
鉄郎の母/トチローの母/プロメシューム(声): 小野妃香里
アンタレス: 塚原大助
クイーン・エメラルダス: 凰稀かなめ(特別出演)
キャプテン・ハーロック: 平方元基

岡崎大樹 高木裕和 高橋里央 出口栄一
富田大樹 長尾哲平 中島大介 バレッタ裕
藤田勇紀 森内翔大 森田カ斗
安里唯 池田美千瑠 新橋和
望月ちほ 安室夏 横関咲栄(男女別・五十音順)


原作・総監修: 松本零士

脚本: 坪田文 作詞: 石丸さち子
演出: 児玉明子
映像演出: ムーチョ村松
銀河鉄道999テーマ曲: 中川晃教
音楽: 久保田修

『銀河鉄道999』は40年の歴史と作品愛ゆえに、昨今の2.5次元舞台ブームに連なるような「舞台化されたらファンが喜ぶ」という図式は成立しない。
作品のファンは、コミックスとアニメを何十年も聖典とし、その図柄と声を自らの中でいわば神格化している、とも言えるでしょう。原作者が総監修に当たるとはいえ、素人目から見ても舞台化するにはリスクが高過ぎる。

また、普段から「観劇する」という習慣を持った人ではないと、直接劇場に足を運ぶというのはハードルが高いそうです。
作品が好きな人たちの中で舞台に好意的な興味を持った人たちがいたとしても、実際に来てくれる人はその数%に過ぎないのではないでしょうか。

ハーロックは「男なら危険を顧みず、死ぬと分っていても行動しなければならない時がある」と言いますが、キャスト・スタッフは原作ファンの批判という”危険”を十分に覚悟したうえでこの作品を送り出しました。

私が主演の中川晃教さんのファンで、時折知らされるハードな稽古の様子から彼の努力の成果を肯定したいがゆえの妄言と言えばそれまでですが、時間も空間も制限される舞台というフィールドで『銀河鉄道999』を表現できたのは、星野鉄郎が役について考えて考えて考えぬくアッキーだからだと思います。

鉄郎は最初、エメラルダスやアンタレスに”坊や”とか”坊主”って呼ばれるけれど、機械伯爵には”青年”って呼びかけられていることに気がつきました。
そこに至るまでの約2時間、子ども時代(お母さんとのシーン)があり、旅に出て様々な経験をし、鉄郎は少年から青年に成長する。
声、話し方、目の力、表情、姿勢、歩き方...舞台上のアッキーの全てでその変化を感じられました。

鉄郎はお母さんとトチローの母にハグされたり、シャドウに抱きつかれたり、クレアに盾になってもらったり手を取られたり、ハーロックとトチローに肩やら頭をポンポンされたり、メーテルに頬を触られたり、エメラルダス様と機械伯爵に顎クイされたり...と、スキンシップを一身に受けるのですが、アッキーの表情とリアクションで、鉄郎の相手に対する気持ちが分かるのです。

感情の動きを投げっぱなしにするのでも押し付け過ぎることもなく客席に届けるスキル、それがアッキーのすごいところだと思っています。


調べてみたらGALAXYという単語には、銀河という意味のほかに「華やかな集まり」という意味もあるそうです。

曲数は多くはないけれどバラエティに富んだ曲や、各ジャンルで活躍するキャストたちもGALAXY OPERAという副題にピッタリでした。

作品のファンが「なぜ鉄郎やメーテルが歌うのか?」とふと現実に戻されてしまったとしても、再現度の高い車掌とアンタレスがいること、圧倒的な美でねじ伏せるエメラルダスとハーロックがいること、リューズが美声でギターを弾き語りしてくれること、それがこの999の世界観を保ってくれている。
それが鉄郎としても心強かったと思います。

明治座というサイドにも席がある小屋型の劇場での見せ方という点では、見切れてしまう箇所が多いステージングに不満があるし、演出としては交通整理が足りなかったり逆に情報過多な部分もあり、ディレクションの確かさよりも、キャストの力量に依存する部分が大きいように感じてしまいました。

『銀河鉄道999』には少年の成長、恋、男と女、母親、死、夢...いろんなテーマが内包されていて、プレゼンテーションはワンテーマが基本と言われている現代において複雑過ぎると個人的には思うのですが(私が頭悪いだけか)、大きなくくりで言うと「人間讃歌」の物語ですよね。

クレアの純粋さに胸を打たれ、シャドウのこじらせっぷりになぜか共感を覚え、機械伯爵の狂気には、人間が生きる意味を考えさせられる。
永遠は哀しい。

限りある命を生きた人間のトチローだから、鉄郎に「本当の永遠」を教えることができる。
生身の人間が演じるということで、よりビビッドにその想いが伝わったのではないかと思いました。
それだけでも、舞台化した意味があったのかもしれません。

2018年6月25日 (月)

銀河鉄道999 〜GALAXY OPERA〜 6/23 18:30 初日

@明治座
A席 2階右側2列目

星野鉄郎: 中川晃教 メーテル: ハルカ
機械伯爵: 染谷俊之 リューズ: 矢沢洋子
シャドウ: 雅原慶 クレア: 美山加恋
車掌: お宮の松
大山トチロー: 入野自由
鉄郎の母/トチローの母/プロメシューム(声): 小野妃香里
アンタレス: 塚原大助
クイーン・エメラルダス: 凰稀かなめ(特別出演)
キャプテン・ハーロック: 平方元基

岡崎大樹 高木裕和 高橋里央 出口栄一
富田大樹 長尾哲平 中島大介 バレッタ裕
藤田勇紀 森内翔大 森田カ斗
安里唯 池田美千瑠 新橋和
望月ちほ 安室夏 横関咲栄(男女別・五十音順)


原作・総監修: 松本零士

脚本: 坪田文 作詞: 石丸さち子
演出: 児玉明子
映像演出: ムーチョ村松
銀河鉄道999テーマ曲: 中川晃教
音楽: 久保田修


この舞台作品は『銀河鉄道999』の実写化というだけではなく、作品誕生40周年を記念したものという側面が強い。
忠実な再現というより、松本零士という果てしない夢を持った漫画家が『銀河鉄道999』をどのように生み出し、なぜ今も漫画を描き続けているのか、というエピソードを織り込んでいる。

なので、劇場版『銀河鉄道999』を1回でも見たことがある人にとっては、「そこで終わるんかーい!」という場面で終わります。
つまり、メーテルに「私は、あなたの想い出の中にだけいる女。 私は、あなたの少年の日の心の中にいた青春の幻影」と言わせない。

今回、トチローの死とエメラルダスとハーロックの友情を通して、青春は終わらないと描いている。
人間には永遠の身体はないけれど、“限りある命を燃やして生きる”ことが、その後”誰かの中で永遠に生き続ける”ことになる。青春は引き継がれる。


原作者であり総監修も務める松本零士先生のコメントがHPに掲載されています。
永遠の命とは何か?に向き合い続ける鉄郎は零士先生自身であり、また鉄郎に限りある命を燃やすことが永遠の命だと説くトチローもまた、鉄郎を生み出す零士先生なのです。

トチローが共に青春を翔けたハーロックとエメラルダス、それはあたかも零士先生と同時代に活躍したたくさんの漫画家たちにも重なるように感じます。
トチローは零士先生であるとともに手塚治虫でもあり、石ノ森章太郎でもあり赤塚不二夫や藤子・F・不二雄や藤子不二雄Aなのかもしれません。彼らは早く亡くなってしまったけれど、残したスピリットは受け継がれていく。

映画でも劇中でも、キャプテン・ハーロックから「男なら失敗するとわかっていてもやらなきゃいけないときがある」という台詞が頻発します。
ハーロックはヒーローで、トチローの親友でもあり、鉄郎にとっては憧れの存在。零士先生にとっては自分を鼓舞する理想の自分の姿なのかもしれません。

脚本の坪田さんは『プリキュア』のシリーズ構成に参加されているのですが、今シーズンのプリキュアのテーマは「女の子は何にでもなれる、何でもできる」(「男の子だってお姫様になれる」と提示した回もあるそうです)。
そんな時代において、「男なら」「男として」という思想を前面に押し出すことは、あまり受け入れられないものだと思うのです。
そこを1人の実在の男が辿ってきた話、つまり、画材と行きの切符だけを持って北九州から列車に乗って東京にやってきた松本零士先生のエピソードとかぶらせることによって、そういう生き方をする人間もいるのだという”一例”にも落とし込んだのは、効果的だと思いました。

名作と言われているものでも、メッセージには普遍性があるものと時代性のものがあると思います。
ある時代では無条件で受け入れられていた価値観がほかの時代では、ちゃんと背景を描いて「なぜそれを伝えなければならないのか」を明確にしなければ反発を招いてしまう。


鉄郎は、ガラスの身体を持ったクレアとの出会い、そしてトチローの生き様から、機械の身体を手に入れて永遠に生きるよりも、今、命を燃やしていきることこそが自分のやるべきことだと悟る。
松本零士先生がたくさんの作品を生み出し80歳の今もまだ走り続けているように、ひとつひとつ懸命に闘っていくことが旅の終着点に辿り着くただひとつの線路なのでしょう。

ただ、個人的には「大事なことなので2回言いました」的に、台詞に何回も出てきたのは過剰ではないかな?とも感じました。なんというか、道徳の授業みたいで。
大事なことは分かったから!みたいに、そっぽを向きたくなってしまうんですよね、ひねくれ者なので。
役者さんたちのそれまでの素晴らしい演技でじゅうぶんに伝わってきます。

私自身は『銀河鉄道999』をリアルタイムで観た世代ではありません。
なので、鉄郎役の野沢雅子さんと言えば『ドラゴンボール』の孫悟空だし、車掌役の肝付兼太さんは『ドラえもん』のスネ夫だし、リューズの小原乃梨子さんは同じくのび太だし(声優チェンジ前の『ドラえもん』世代)、ハーロックの井上真樹夫さんは『ルパン三世』の石川五エ門だし、エメラルダスは『ベルサイユのばら』のオスカルなのです。(『ベルばら』は子どもの頃に再放送やってたんですよねー)

なぜ凰稀かなめさんが『1789』公演を中抜けしてまでこの作品に関わったのか謎だったのですが、彼女もまた宝塚時代にオスカルだったと知りました。それが狙いだったのか!
でも、何かのインタビューで「久しぶりに戦いたかったの(笑)」と答えていたのをお見かけしたので、ファンの方はマントを翻して戦う姿を見られるのは嬉しいと思うんですよね。男役を卒業してしまうとそんな役はなかなか見られないし。
エメラルダスは孤独な女海賊と言われているけれど、戦いに身を賭し胸の中にトチローへの熱い愛を秘めた、強くてかっこよくて美しいかなめラルダス、最高でした。

エメラルダスの盟友ハーロックも、みんなが憧れるようなヒーローofヒーローで、あの衣装を着こなせる元基くんすごい。
ソロはすごく難しいメロディラインだったと思いますが、トチローとエメラルダスと共に戦った日々に想いを馳せ、鉄郎を見守る優しさや年齢以上の渋みや人生の痛みも感じさせるものでした。

同い年のかなめさん、年下の元基くんに「坊や」扱いされるアッキー鉄郎、めっかわ(笑)
小野妃香里さんにもたくさん抱きしめてもらっていて、坊や属性すごいな…。今回3人の母を妃香里さん1人が演じるというのは、”母なるもの”という点がですごく示唆的(舞台に直接関係ないのですが、最後にちょっと書きました)だと思いました。

車掌さんとアンタレスがアニメそのままで、思わず顔がニヤついてしまうほど!
車掌さんはちゃんと腕章が落ちるし、時間城に潜入してくるアンタレスかっこいいよぅ〜(体格差萌)。
冒頭、メーテルに名前を訊かれた鉄郎は、この名前は父親が付けてくれたと自慢気に言っていますが、アンタレスに「男らしい名前だな」と言ってもらえたことで、彼のことを父親と重ねていたのかもしれませんね。

永遠を手に入れてしまった狂気と哀しみの機械伯爵。染様、好演でした。美貌はもちろんなのですが、声が素敵ですよね。
驚いたのが初舞台だというリューズ役の矢沢洋子さん!もともと歌手として活動されているということで、歌う場面のあるリューズはハマり役だと思うのですが、伯爵を愛し抜く覚悟が伝わってくるお芝居、とても良かったです。また別の作品でもお目にかかれるといいな。

雅原さん演じるシャドウも、機械伯爵と同じように永遠を手に入れてしまった女性。艶やかな歌声が逆に失ってしまった生身の身体というものを際立たせていたように感じました。鉄郎が機械の身体を持つことに迷いを持つようになるきっかけとなるシーン、鮮烈な切なさを描いていました。

嬉しいサプライズだったのがガラスの身体を持った銀河鉄道のウェイトレス・クレア!
クレアと鉄郎の場面はまるでラブコメのようで、微笑ましくクスッと笑えて、とにかくかわいいです。そりゃ美山加恋ちゃんですからね。
ガラスの身体を持つクレアに出会うことで、鉄郎は人間の身体であることを自覚する。2人の出会いはとても意味深いもの。
そのやりとりがとてもキュートなので、映画版のラストまで描いてしまったら私が立ち直れないかもしれない…これで良かったのかも?(えっ)
クレアちゃんと鉄郎にはキャッキャウフフしていてもらいたい。

メーテル。難しいですよね。
映画やアニメを全編見ていなくともその存在だけはみんなが知っている。
舞台上で声を荒げず、抑揚なく台詞を続けることはかなり難しいことと思います。
鉄郎の母親を殺したのは機械伯爵だけれど、(劇中で明示されないのですが)その状況を生み出したのは自分の母親であるプロメシュームで、彼女の意に沿うように鉄郎を利用する、その葛藤と境遇の悲しみ。
鉄郎のピュアな言動がメーテルを揺り動かしていくのですが、大声で泣いたり叫んだりできないメーテルを表現するのは、鉄郎との対比にかかっているのだと思います。

トチロー(ともう1役)の入野自由くん。
朗らかで情熱的なトチロー、魅力的でした。そりゃエメラルダスの心もゲットしちゃうわ。
機械化人の悲しみを見てきた鉄郎が人間として何が出来るかと考えるようになる、説得力に溢れた存在になっていました。
零士さんパートと999を繋ぐ役として、また、この作品のメッセージを一身に担う役として、かなり特殊な役柄だと思いますが、パーンと弾ける声が仲間を、そして作品全体を鼓舞しているように感じました。

それにしても、アッキー鉄郎と自由トチローのデュエットが素晴らしく、インタビューで2人は声の相性がいいと言っていたけれど、これを聴けて良かった!

アッキーの星野鉄郎は、完璧な衣装のおかげもあるのですが舞台に現れた途端に少年の鉄郎でした。姿勢もかなりアニメを意識して作っているように見えました。
台詞は野沢雅子さんリスペクトを感じさせつつ、冒頭、特に、旅に出発する前とお母さんを殺される場面は初めて聞く声でした。アッキーは「フランキー・ヴァリのトワングが第3の声」と言っていますが、この少年の声は第4の声と言えるのではないでしょうか。

喜び、葛藤、苦悩...それぞれの出来事に正面からぶつかり、鉄郎少年は、銀河の旅で青年へと成長する。その変化を自然に、しかし考え抜いて演じられるのはアッキーだけだと思います。

オープニング、スラム育ちを表現するのにラップを使ったことに軽く驚きつつも、かなり踊るアッキーも見られてラッキーだったり。要注目!
ジャケットにしてもマントにしてもあの衣装は暑いはず。ものすごい汗をかき、約3時間出ずっぱりで舞台を引っ張っています。

初日、カテコで松本零士先生から挨拶があり、キャストにエールを送ってくださいました。また、客席に野沢雅子さんがいらっしゃっていたので、アッキー、お話しが出来ていたらいいなぁ。


正直に言うと、初日を見た感じでは、演出面でこの999という作品と明治座という空間を手に負えていない面が見受けられました。衣装&メイクによる再現度の高さもあいまって、自分の役柄への理解度が深いキャストたちの力に頼っている部分も大きいと思います。

そういった意味では、車内放送(開演前&休憩時間のアナウンス)をキャストにやってもらうのは正解だと思います。
クレアちゃんのツイートによると、クレアちゃんと車掌さんが生アフレコしているのだとか!
次回の観劇も楽しみです。


<ここからは舞台にあんまり関係ない話>
アッキーが出るということで、劇場版のBlu-rayを入手して2〜3回観た程度。
『銀河鉄道999』では、おそらく数えきれないほどの考察や論文が発表されていると思うので、”何を今さら感”があると思うのですが、『銀河鉄道999』の中での描き方で特徴的なのは”母”の存在で、映画では鉄郎の母、トチローの母、そしてプロメシューム(メーテルの母)という3人の母親が登場します。
子どもを慈しみ理解しようとした2人の母親と支配しようとするプロメシュームという描写。

ユング心理学には「太母(グレート・マザー)」という共有されるイメージがあるそうです。
愛情豊かで弱きものを包み込むように優しく保護する姿によって、男性の内面の異性像の理想化となる一方、グレート・マザーには、その包容力ゆえに子どもを飲み込み独占しようとする負の側面もあって、まさしく999ではその両方が描かれていたのだと気がつきました。

鉄郎は母の仇を取るために母とそっくりなメーテルと旅をする。つまり、初恋の女性の中に母を見ている(劇中では言及されていなかったけれど、実際、メーテルの身体は鉄郎の母のもの)。
プロメシュームとの対決はこの舞台版では描かれていないので、鉄郎はずっと「母親は無条件に愛する存在」と信じていて、メーテルが抱える葛藤には気がついていません。
そして旅の中で鉄郎はメーテルと母親は違うと言うようになりますが、機械伯爵を倒してメーテルの元に戻ったとき、成長して愛する女性の前にやってきたのか、それとも母親の面影を彼女に見ていたのでしょうか。

もし続編があるのであれば、描かれるのはここなのかなぁ。

2018年6月12日 (火)

ラヴ・レターズ 6/11 18:30〜

@草月ホール
1階 SD列 下手側

メリッサ・ガードナー: 知英
アンドリュー・メイクピース・ラッド三世: 中川晃教

演出: 藤田俊太郎

アッキーが過去2回出演したときは見ていないので、同じ演目で時間が経って、また、相手役が代わってどう変化したのかは私には分かりません。

たわいもない話題を書いてはお互いの環境を分かち合い、すべてを知ろうとしていた若い2人が、知り過ぎたゆえに離れ、別々の道を歩み、いつしかクリスマスカードのやり取りだけになっていくということだけで時間の流れが分かってしまう構成がリアルでした。
2人のような関係ではなくても、大人になれば(日本で言うところの)年賀状のやり取りだけになっていってしまうものですよね。

ツイッターにアンディのパートをアップしているアカウントがありました(もしかしたら、メリッサのもあるのかな?)。

アンディのこの文面、”書くこと”を”音楽”や”歌うこと”に置き換えてみると、そのままアッキーじゃないか!と思えて、一気にグッと引き込まれました。


少年少女とも言えないような子どもの時代から壮年〜初老期まで、2人が交わした手紙を読んでいく。
2人それぞれの人生でありながら、彼らが1つの物語を作っていく過程のようでもありました。

成長しても少女のように可憐で危なかしく自由奔放で少しエキセントリックなメリッサと、背負うものが大きく重たくなっていくアンディ。
2人は何もかもが正反対で、だからこそ月日が経てば経つほどお互いがお互いを求めるしかなかったのでは。

2人の若い肉体は手紙の中の2人によって結ばれることはなかったけれど、数十年の年月の手紙の2人が実体の2人を近づけ、いつのまにか心と身体をひとつに添わせた。



アンディの妻子、そしてアンディを取り巻く状況からしたら、表面上2人の関係は不適切なものに見えるのかもしれないけれど、アンディは手紙という手段でメリッサにすべてを投げ出し、長い時間をかけてメリッサを侵食してきた。そして、アンディはもはやメリッサの中に生きていて、2人はひとつになるべくしてなったのだと思いました。

学校や家族に束縛されることは苦手なのに、アンディの手紙によってアンディに絡め取られてしまうメリッサ。
アンディは自分にそんな思いはなくとも、手紙でメリッサにある種の呪いをかけ続けていたのかもしれません。

同じく手紙のやり取りによって成り立っている『ダディ・ロング・レッグズ』は、ジルーシャの手紙によってジャービスが現実の呪縛から救われる話だけれど、手紙に込められた思いが相手を包み込んでいく様子としては同じなのかも、とも思ったり。

話はずれますが、殺人犯の兄と弟の手紙について描いたミュージカル『手紙』(原作: 東野圭吾)も、演出は藤田俊太郎さん。手紙の持つ力をまったく別方向で取り扱った作品が同じ演出家というすごい偶然。


舞台上には2脚の椅子の間に小さい机、その上にお水の入ったデキャンタとグラスが2つだけ。
知英ちゃんは頻繁にお水を飲んでいました。
それが、メリッサの情緒不安定さやアンディからの手紙を受け取ったときの心の動きを表現しているように見えて、視覚的にとても効果的だったと思います。
白いワンピースもメリッサの少女性の象徴のようでした。

一方、アッキーは1幕2幕通じてほとんどお水に口をつけなかったと思います。それも、アンディがメリッサの手紙と真剣に向き合っているようで、手紙の中のメリッサとの逢瀬を邪魔されたくないというような意志にも感じました。

子ども時代のピュアなラブ、青春時代の性衝動と感情の不一致、別の恋愛、戦争、仕事を得て自分のエリートとしての務めを果たそうとする様子、結婚……
アンディは50数年を駆け抜ける2時間で目まぐるしく変わっていきます。
でも、”手紙を書く”という行為だけは変わらなかった。

朗読劇ではありますが、アンディを演じるアッキーの表情が刻々と大人になっていく様子を見ることができました。
子ども時代から国を動かす立場になるまで、キュートな笑顔とちょっとした角度で顔に陰影をつけて社会的責任のある男の覚悟のようなもの、ただ座っているだけなのに、年齢の経過を感じさせる演技でした。

アッキーは、殊更に声音を変化させるようなこと(わざとしわがれさせるとか、スピードを変えるとか)をしないのですが、壮年期のアンディの声自体に深みを感じさせられました。
これはJBのフランキーでも思ったことなのですが、その深みというのは、キャラクターが(舞台で描かれていない)経験してきた喜怒哀楽が声に宿っているということなのだと思います。
アンディの地位相応のズルさ、したたかさ、それと相反する元来の純粋さ…。それが声に、朗読に現れている。

そして、ラストシーン、極限まで我慢していたものが決壊した感じの最小限の泣き。素晴らしかった!
例えばJBの「Fallen Angel」、例えば『フランケンシュタイン』の「後悔」…アッキーが伝える“喪失”の繊細な表現が大好きです。
刺されるような、えぐられるような痛みというより、心の奥の奥に大切にしまっていたいちばん大事なものにヒビが入ったような、その人にとって最大の悲劇を静かに慈しんで悲しむような涙。

アンディがメリッサの母親宛ての手紙を読むとき、知英メリッサが手紙を介さずアンディに寄り添っている。もうメリッサはアンディの手紙に縛られることはなく、今度はアンディがメリッサの幻に縛られて生きていくことになるのかもしれません。

メリッサとアンディ、演じる役者さんたちの数だけ、その形はあり、また観客それぞれの環境やテンションに寄って受け取るメッセージが異なる物語だと思います。
だからこそ、こんなに長く上演され続けているのでしょう。

最後に、アッキーは客席ではなく上に向かって投げキスを送りました。
アンディから天の上にいるメリッサになのか、アッキーから亡くなられた演出の青井陽治さんに宛ててなのかは分からないけれど、何か温かい感情がその場を満たしていたように感じます。

2018年6月 6日 (水)

ウーマン・オブ・ザ・イヤー 6/2 12:00〜 6/9 17:00〜

@赤坂ACTシアター
S席1階C列 センターブロック

テス・ハーディング: 早霧せいな
サム・クレッグ: 相葉裕樹
ジェラルド: 今井朋彦 ヘルガ: 春風ひとみ
チップ: 原田優一 アレクセイ: 宮尾俊太郎
ジャン他: 樹里咲穂
モリー他: 角川裕明 ラリー他: 田村雄一
天野朋子、池谷京子、木村晶子
栗山絵美、原広実
新井俊一、大野幸人、木内健人
佐々木崇、染谷洸太、俵和也、山本大貴

脚本: ピーター・ストーン
作曲: ジョン・カンダ―
作詞: フレッド・エッブ
上演台本・演出・訳詞: 板垣恭一
音楽監督: 玉麻尚一

テスのキャラクターが「男社会でのし上がる」と無理に肩ひじ張っている女性ではなく、ただただ仕事が大好きなキャリアウーマンとして一貫していたことにスカッとする明るさを感じました。
「男には負けない」「女だけど男なの」と歌う曲もあったのですが、“女だからバカにするな”という意図ではなくて、前のシーンからの繋がりで、外交官だった父親のようにバリバリ仕事をしたいというテスの思いが根底にあるのが分かるので、テスに空元気のような悲壮感がなく、彼女を応援したくなります。

そして、何より痛快だったのが“強がって見せているけれど内心は心細くて男性に寄りかかりたいと思っている”という描写が一切なかったこと。ノーストレス!!
お互い一目惚れして、好きになったから結婚した。
それが何?それがいい。

結婚してからも何ひとつ自分の生活を変えなかったこと、それは、一緒に暮らしていく人に対する思いやりが足りなかったという点でテスに非があると思うのですが、仕事に生きるテスを否定せず「(夫婦のあり方を)2人でチャレンジしよう」というサムの最後の提案がとても素敵。

この作品は1981年にブロードウェイ初演だそうで、劇中はおそらく1980年前後のアメリカを舞台にしているのだろうけれど、専業主婦vsキャリアウーマンを「どっちがいい」と結論づけず、それぞれに『隣の芝生は青く見える』と歌わせる視点が、2018年の今見ても優しく感じます。

また、愛に生きるアレクセイの存在も、サムをないがしろにしてしまったテスの反省を促すモチーフとしてアクセントになっていて面白かったです。
宮尾俊太郎さん、お芝居の部分ではインパクト大かつキュートに、そしてバレエダンサーとしてダイナミックに舞台上で躍動していました。

漫画家のサムにも、自分のスタジオとインクポットという行きつけの溜まり場という居場所があって、結婚というのは違う世界を持った2人が一緒になるということなのだと分かりやすく提示されていたと思います。

サムの描く猫のキャラクターのカッツが映像で映し出されるのですが、一緒に踊るばっちがとてもかわいい。細長い手脚も相まって、そっくりに見えてきます(笑)

サムの漫画家仲間は、新井くん、俵くん、健人くん、幸人くん。そういえば、幸人くんは3月の『ツクリバナシ』に続いて漫画家の役ですね。
踊れて歌える4人の活躍は嬉しい限り。幸人くんはなんと白タイツのバレエダンサーも兼任します。

原田優一氏。
なんというかもうジャンルが原田優一。クセが強い。
テスがスカッと爽快!という性格なので、対極に位置する感じのキャラクターを振り切り過ぎていて、好きとしか言えない。チュチュもかわいかったよ?(震)。

テスの家のお手伝いさん・ヘルガを演じる春風ひとみさん、テスの超優秀な秘書ジェラルドを演じる今井朋彦さん。このお2人が最高に素晴らしかった!
ヘルガとジェラルドには、テスに良い仕事をしてほしい、そのために自分は彼女のもとで働いているんだというプロフェッショナルな矜持を感じ、テスが幸せでいられるように気を配っている様子は温かくも少し過保護で子ども(仕事以外何もできない)扱いしている様子が良い関係。

ジェラルド、私が見てきたミュージカルの中で最高のジェントルマンだと思います。今井朋彦さんがかっこいいからそう思ってしまうのでしょうか…。
今井さん、アンサンブルワークに参加されていたことに驚きましたし、歌声も艶がありウットリさせられましたし、テスとの掛け合いソングは楽しいし、ヘルガとのデュエットは抱腹絶倒だし、ジャケットを脱いでシャツを腕まくりする姿はセクシー過ぎて300万回見たいし、とにかくチケットを取っていた私、Good Job‼︎

『CHESS』と『フランケンシュタイン』を見たくなってしまうアンサンブルキャストの顔ぶれ。
終盤のTV番組収録の場面は、TVクルーを演じる彼らの大活躍ぶりに笑いが止まらなくなりました。みんな全力で芝居が細かい(笑)

そういえば、赤坂ACTシアターでは、『HEADS UP!』で舞台のドタバタを見て『ウーマンオブザイヤー』でTV番組のドタバタを見たことになるんだなぁ。
(どっちにも、ばっちが出てるw)

『キャバレー』『シカゴ』を作ったジョン・カンダーの曲はキャッチーで、つい口ずさみたくなる中毒性もあり、「良いミュージカルを見た!」という心地良さを感じられる観劇でした。

6/9 鑑賞後追記
テスとサムの最初のキスシーンは、テスが椅子の上に乗っているのに対し、最後は同じ目線で行う。
それだけで、この2人が最初は結婚に対して別々の考えを持っていたこと、「2人で挑戦してみないか」とサムが2度目(?)のプロポーズをした後は、2人が同じ場所からスタートすることが分かる。
演出ってこういうことなんだなぁ、と思わされました。

2018年6月 4日 (月)

DAY ZERO 5/31 19:00〜

青山DDDクロシスアター
C列センター

弁護士 ジョージ・リフキン: 福田悠太(ふぉ〜ゆ〜)
タクシードライバー ジェームス・ディクソン: 上口耕平
小説家 アーロン・フェラー: 内藤大希
パトリシア ほか: 梅田彩佳
モリー・リフキン ほか: 谷口あかり
カウンセラー ほか多数: 西川大貴

Based on the screenplay DAY ZERO by Robert Malkani
上演台本: 高橋知伽江
作曲・音楽監督: 深沢桂子
演出: 吉原光夫
ギター演奏: 中村康彦

カオスだと思ったメロディーも、2回目だと身体に入ってくる箇所もあったのは収穫。

東京公演初日前の取材では、この作品で描かれる近未来は2020年だと明かされていました。
劇中に「明日は昨日の続きだと信じて 今日を生きてきた」(意訳)というような歌詞があります。
2020年は2018年の続き。
それなら、せめて2010年代の政治の動きを踏まえたものにならなかったのでしょうか。

トランプ政権の任期は2021年1月までなので、2020年は大統領選真っ只中ということになります。
その話題がいっさい出てこないというのは、アメリカ社会を描くうえで、あまりにも不自然ではないかと思うのです。

原作の映画ではどう描かれているのかわかりませんが、2008年に上映された近未来の姿は2018年ではすでに過去のものになってしまっているような気がします。
ゲイやレズビアンのアスリートがオリンピックで活躍し、大物映画プロデューサーへのセクハラ告発に端を発する #Metoo ムーブメント全盛の今、彼らの思考・行動が時代遅れの感が否めないのです。

2020年という近未来にすることによって、自分たちに身近な話題となるはずなのに、2018年までが描かれていないのでこれが2020年である必要がないんですよね。
本当に徴兵制があった第二次世界大戦でもベトナム戦争でも描ける話。

決められたDAY ZEROまでどう過ごすか。
20年来の彼らの友情、それぞれが守りたいもの、やりたいこと、見つけたもの。残してきた過去と向き合うこと。
それがこの作品で描きたかったことだと思うし、伝わってはくるけれど、”現代があっての近未来”という前提がすっぽ抜けているので、状況が上滑りしてしまっているように感じてしまうのです。

1時間40分強の作品ですが、もう少し時間を伸ばしてでも彼らを取り巻く”社会”を描いて欲しかったように思います。

2018年6月 3日 (日)

朗読(クローゼット)ミュージカル『不徳の伴侶 infelicity』 5/30 19:00〜

@赤坂RED/THEATER
H列 センターブロック

メアリー・ステュアート: 彩乃かなみ
ボスウェル伯ジェームズ・ヘップバーン: 藤岡正明
ダーンリ卿ヘンリー・ステュアート他: 百名ヒロキ
カトリーヌ・ド・メディシス/マリ伯他: 舘形比呂一
ドン・カルロス/リッチオ他: 吉本真悟
​エリザベス1世他: シルビア・グラブ

作・演出: 荻田浩一
作曲: 福井小百合


「不徳」という言葉はだいたい不祥事を起こした(会社の)おじさんとセットになって「不徳の致すところ」というフレーズで馴染みがあり、「不徳」というひとつの単語で使われることはあまり見かけないような気がします。
そもそも「不徳」とはどのような意味なのでしょう。



次に、同じくタイトルに掲げられている「infelicity」という英単語の意味も確認してみると、



直訳というわけではないようですね。

メアリー・ステュアートが不徳な行いをした伴侶を得たことが不幸、それとも、不徳な行いをする者を伴侶とすることが(メアリーが女王として)不適切、もしくは、メアリー自らが若くして最初の夫と死別した後、不徳な行いを重ねて 2人の不適切な相手の伴侶となったことをさすのでしょうか。
たぶん、その全部なのかな。

16世紀のヨーロッパ世界の王室・貴族において、結婚は政治の手段であり、好きな人と結ばれることなどない。自国の利益のために、他国に嫁ぎ、または他国から相手を迎え入れ二国間の結びつきを強固なものにしたり、国内の宗教上のバランスを取ることに終始する。

一緒になった後で心を通わせあった夫婦もいたでしょうが、愛人を持ったり、(当時の環境で1人の子どもが無事に成長する保証がないので)自分の王位を自分の血統で存続させるためには、ヘンリー8世のように宗教を改革してまで離婚と結婚を繰り返した人もいた。

フランスからスコットランドに帰ってきたメアリー・ステュアートの再婚は、メアリーだけのものではなく、スコットランドのものであり、同じくテューダー朝初代イングランド王ヘンリー7世の血統を引くイングランドの問題でもあり、カトリック世界の問題でもあった。

生国とはいえ帰ってきたスコットランドにメアリーの確固とした居場所はない。

王位を獲得するためにメアリーの心細さにつけこむダーンリ卿に打ちのめされた末に復讐に手を染め、お互い最初は結ばれなかったけれど、最後にはメアリーの気持ちを撥ね退けて無理に自分のものにしようとするボスウェルとは安らぎを得られなかった。
メアリーが望んだ王位も幸福も、メアリーの手中にはやってこなかった。

“歴史は勝者が作る”と言いますが、「結婚は愚かでバカらしいもの」と吐き捨てたエリザベス1世の判断が正しく、メアリーは不徳な伴侶を得て、また自らが不徳な伴侶となり、歴史の敗者となっただけだった。
歴史の大局を見極められず、人に利用され、愛に生き抜いたわけでもなく、掴めぬ地位に恋々とし、最後は処刑されてしまう、メアリー。
哀れで悲しい話でした。

朗読劇は、多くの衣装やセットを使わずに地の文を読むだけで時間も場所もひとっ飛びできることが最大の利点。そして、役者同士が直接的に触れ合わないことで生まれる緊張感。そのぶん、全てが凝縮されているように思いました。

メアリー・ステュアートは、欲望まみれなのに強かになりきれず、求めるほど幸せが逃げていく哀れさ、自らが潰れていくことを否定する醜さなど、ヒロインなのに決して愛されるキャラクターではないと思います。
彩乃かなみさんは、ダーンリ卿との恋を歓ぶ可憐な声音からボスウェル伯に姦淫されてしまうときの悲痛な叫びまで、可愛らしさも激しさも感じさせながら、メアリーという人間の姿を見せていました。

藤岡くんのボスウェル伯。後半まで抑えて抑えて抑えた台詞回しが印象的。その代わり歌ではロック調のものや音程の上下が大きいものなど、ダイナミックな曲調のソロ曲があり、ボスウェルの内面は滾っていたのだということがわかりました。
ミュージカルってこうでなくては!!
メアリーを助けたくて、彼女を自分のものにしたくて、その思いが爆発したとき、彼は人間ではなくなった。
手負いの獣は周囲が見えない。ただ自分たちのためだけにしか動けない滑稽とも思える最期を迎えることになった。
2人が死んでから出会う場所は地獄なのでしょうか。

エリザベス1世のシルビアさん!
スーパーかっこいいぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!
そりゃもう女王ですわ、王位はあなたのものですわ!
何より内政と外交を冷静に判断できる頭脳が、彼女を王たらしめている。
品位はその地位に就こうとして身につくものではなく、その地位に相応しい思考を持ち、行いを正している者に備わるもの。ビアさんのエリザベス1世は気品と知性と少しの残酷さを持ち合わせた素晴らしい女王でした。
絶対メアリーが王位を手に入れるのは無理だとすぐに分かってしまう女王像だったと思います。

カトリーヌ・ド・メディシスは外国人であるメアリーに冷たく、メアリーの異母兄であるマリ伯は自分のことしか考えていない小物なのに、舘様の艶やかな声で語られると魅力的なヴィランに思えてしまう(笑)
陰謀製造機とでもいえばいいのか、あっちこっちでメアリーを陥れようとするしつこさはもはや賞賛するしかないような…。

百名くんは爽やかヤ○ザなダーンリ卿をキラキラと好演。10代の男の子の裏の王位に対する執念。王位を手に入れられるなら、結婚だってしてみせる。だって、結婚は好きな人とするものではないのだから。
歌に関してはほかのキャストが圧倒的な歌唱力の持ち主ばかりなので「が、頑張れ…!」と思ってしまうこともありましたが、動きが制限される朗読劇の中でゲスの極み夫っぷりを台詞で浮き立たせていたと思います。

お目当てだったのが、吉本真悟くん!
ダンサーなのに朗読劇?え、朗読劇なのに踊るの?と興味津々でした。
ダンス公演で何度も見ていて、そのコメディセンスには絶大な信頼があるのですが、この作品でも血生臭い重いシーンを緩和させるキュートな役割を担当。
リッチオォォォォォォォォォォォォォォォ(泣)
また、登場人物の心象(それぞれが歌っているとき)をダンスで表現する場面は圧巻の一言。
特に藤岡くんの歌で、真悟くん、舘様、百名くんが踊ったときには、あまりにも贅沢過ぎて、このサイズの劇場で見られることが信じられませんでした。

ものすごい熱量で歌い上げる大曲からスキップするような軽めの曲調まで、多くのオリジナル曲で16世紀の不穏な情勢と各キャストの気持ちを表現した福井小百合さんの音楽が素晴らしかった!

演出の荻田さんらしく1人の女性が周囲の情勢に飲み込まれていく物語。
メアリー・ステュアートは悲劇の女王なのか、それとも悪女なのか。いや、「不徳の伴侶」なのだと一つの答えを導いてもらったような気がします。

2018年5月27日 (日)

DAY ZERO プレビュー公演 5/26 15:00〜

@水戸芸術館 ACM劇場
S席 2階A列センター

弁護士 ジョージ・リフキン: 福田悠太(ふぉ〜ゆ〜)
タクシードライバー ジェームス・ディクソン: 上口耕平
小説家 アーロン・フェラー: 内藤大希
パトリシア ほか: 梅田彩佳
モリー・リフキン ほか: 谷口あかり
カウンセラー ほか多数: 西川大貴

Based on the screenplay DAY ZERO by Robert Malkani
上演台本: 高橋知伽江
作曲・音楽監督: 深沢桂子
演出: 吉原光夫
ギター演奏: 中村康彦

設定は召集年齢が35歳まで引き上げられ徴兵制が復活した近未来のアメリカ。
それぞれ別の道に進んだ中学生の同級生で今でも毎週末のように集まる34歳の3人に召集令状が届くことからこの物語は始まります。

DAY ZERO、それは出征する当日。
残されたタイムリミットは21日。
彼らはその期間で今までどうやって生きてきたかを突きつけられ、今の自分と向き合い、どうやって生きていきたいかを考えるようになる。

召集令状を受け取った瞬間、それは耕平くんが出演した『I Love A PIANO』でも描かれました。あれは第2次世界大戦でしたが。
それから、ベトナム戦争の出征前日を描いたミュージカル『ドッグファイト』も頭に浮かんできます。
どちらもアメリカを描いている作品。

単純化できる(してはいけない)話ではないけれど、第2次世界大戦では、連合国側の敵(ドイツ、イタリア、アメリカに宣戦布告した日本)に対する”正義”という大義名分があったのだろうし、ベトナム戦争は、当初はアメリカの圧倒的有利と言われていたこと、また『ジャージー・ボーイズ』でトミーが言うように、自分の境遇から抜け出す手段のひとつにもなっていたのでしょう。

20世紀に多くの戦争・紛争を体験してきた人々は、極力それらを避けるように努力してきたはず。

しかし、2001年9月11日を経た近未来のアメリカ。
召集令状を受け取ったタクシードライバーのジェームスは「自由」のために戦うと言うけれど、それは何のための自由で誰のための自由なのか。
ミサイルのアラートが鳴り、自国の安全が自国を飛び越えた国の間で協議される(だろう)2018年の日本にいる私にはそれが分かりません。これが平和ボケと言うのかもしれません。

彼らは、3人の青年は、自分らしくある自由を奪われたのではないのか。
守るべき大切な生活、初めて心が通じ合えた愛しい人、夢…それらをいきなり打ち切られることが果たして正しいことなのでしょうか。
彼らの21日間、私には何か間違ったもののために無理やり動かされているように見えました。


原案になった映画は11年前に公開されたものだそうですが、このミュージカルは近未来という設定なのに、人物描写やエピソードがなんだか古臭く感じてしまいました。
日本で言うところの”昭和かよ”みたいな(アメリカだけど)

弁護士のジョージについて、嫌悪感を抱いてしまう描写がいくつかあるのです。Metooムーブメントが盛んな今、ジョージが犯した過去の過ちについて触れることは、フィクションとはいえ、とてつもなく気持ち悪い思いがします。
彼の行動は被害者が何も救われない”謝罪オナニー”にしかなっていないのではないかと思うし、それに対してジェームスが返す言葉も被害者に対する視点が欠けていて「それはないだろう」という怒りの感情が湧いてきてしまいます。

そして、ハーバードを出て弁護士をしているという設定なのに、LGBTに対する認識はそんなものなのかという驚きというか落胆というか、違和感があります。

多くのセレブリティ、スポーツ選手、政治家がLGBTの権利を主張しているアメリカという国の法の下で働くジョージが、人のプライバシーや性的志向を踏みにじる行為をするということにおぞましささえ感じます。

極限状態になった人間は何をするのか分からない。それはそうかもしれないけれど、このような思考を持った人間が弁護士をしているということに、この作品の主題とはズレますが、絶望してしまいました。

アメリカの国防総省はオバマ前大統領下の2016年6月30日にトランジェンダー(心と体の性の不一致)の人々の米軍入隊規則を撤廃しました。
しかし、17年7月、新しく就任したトランプ大統領が、彼らの入隊を禁止しようとするツイートを更新し、18年3月には、軍務に就くことを一部の例外を除き禁じる方針を発表しています。

近未来は東京五輪より先に設定されているような台詞がありました。
それならば、あの時代は今のトランプ政権の流れを汲んだ思想に支配されているのでしょうか。
西川くん演じる人物の悲壮な様子に胸が痛みます。

先ほど、未来のはずなのに古く感じてしまうと書きましたが、時代全体が戻ろうとしていることを表しているのでしょうか。


性格も職業も環境も違う3人は、ただの仲良しではなく、2人はジェームスに、ジェームスは2人に、それぞれに”借り””恩”があるという、ジェームスを中心にしたバランスで成り立っている。
過酷な少年時代を過ごしたジェームスを助けてくれた2人のためにヒーローでいたいジェームスの思いは、友情というより自己犠牲で、彼は自分が2人よりも幸せになってはいけないと思っているようなフシがある。
なんというか、救われた命を他人のために使う、ジャン・バルジャンのようにも思えます。

バルジャンはコゼットをマリウスに託し命を終えますが、ジェームスはパトリシアを残して戦地に赴かなければなりません。彼女と過ごすことによって得られた安らぎも希望も気づきも捨てて。

ジェームスが21日間の間に見つけたものは、それまで手に入れられなかったもの。
耕平くんと梅田彩佳ちゃん(梅ちゃん)の繊細なやり取りはとても素敵でした。光と陰のような2人だからこそ惹かれあったのだということが伝わってきたと思います。
それにしても、演出のときの光夫さんってロマンチストだなぁ。

一方、アーロンは、カウンセラーから21日間でやりたいことの「トップ10」を作るといいとアドバイスをされ、今までやりたかったけれど踏み出せなくて出来なかったことをこなしていく。本当にやらなければならないことを避けながら。

ジェームスに言われるまでもなく、彼はやらなければならないことは分かっていたのだと思う。危ない薬に手を染めるほどに。
ジェームスがどんなに願っても手に入れられないもの。それを手放してはならない、自分のせいで手放してほしくない、そんな思いで突き放してしまうけれど、アーロンは絶望感を募らせていく。

内藤大希くん、前半はストーリーテラーというか状況説明のような役割を果たしながら、後半にかけて精神状態が狂っていく役でしたが、上手いなぁと驚嘆してしまいました。
アーロンが一人でいる時間に何を考えていたかという空白をきちんと埋められるお芝居の力が素晴らしい。

“Wたいき”ががっつり絡むカウンセリングソングは、西川くんの役が『Next to Normal』で新納くんが演じた精神科医を彷彿とさせます。あちらはロックで今回はフラメンコでしたが(笑) 西川くん、怪演です。

内藤大希くんと西川くんは子ども時代からの知り合いだけれど、板の上で共演するのは初めてなのだとか。

西川くんは、カウンセラー以外にもジョージの父親や部下、レポーターなど多くの役を兼任します。これは『ドッグファイト』の戸井さん(初演)やひのさん(再演)的な立ち位置ですよね。
後ろを向いてすぐに別の役として喋るなど、休憩なしの100分の中でスイッチをいくつも切り替え、また、ほかの3人に影響を与えるように台詞を投げなければならないという難しい役割に挑戦しています。

特筆すべきなのは、谷口あかりちゃんでした。
ジョージに関わる2人の女性を演じているのですが、彼に人生を救われた女性と彼(だけではないけれど)に人生を狂わされた女性という両極端な役柄を、どちらも的確に舞台上に立ち上らせていました。
また、全体的にメロディが難解というか、耳触りとしてはつかみどころのない曲調を歌詞とともにしっかり伝える力量にも圧倒されました。

最近、役者さんの中からも「ミュージカルは芝居だ」という論調をよく見かけます。
それに異論はないけれど、ミュージカルという”方法”を用いるならば、歌を通して心情を分かりやすく伝えるために、いくつかは劇場を去るときに頭の中に流れるようらキャッチーな曲がほしいところです。カオス感を表現するための不協和音の連続ははっきり言ってキツいものがありました。
また、耕平くんと梅ちゃん、福田くんが揃ってるのに踊らないっていうのがとにかくもったいない。
ダンスで伝えることもミュージカルのひとつの魅力だと思うのですが。

最後に、20年来の親友たちなのにファミリーネームで呼んでいた(ディクソン呼び)ところと、アメリカではサーティワンはサーティワンとは言わないはず(バスキン・ロビンスという正式名称がある)だというのがどうも引っかかってしまって…。
特に人の呼び方は関係性の距離を表すものだから、ファーストネームで呼ぶべきではないでしょうか。
(ビジネスだって、数回やり取りすればメールはファーストネームで送られてくるわけだし)
神は細部に宿って欲しい。

本公演での変化を期待します。



2018年5月16日 (水)

ジャージー・ボーイズ in コンサート 5/13 17:30

@シアターオーブ
S席 1階10列 センターブロック

フランキー・ヴァリ: 中川晃教
トミー・デヴィート: 藤岡正明(赤)、中河内雅貴(白)
伊礼彼方(青)
ボブ・ゴーディオ: 矢崎広(赤・青)、海宝直人(白)
ニック・マッシ: 福井晶一(白)、Spi(青)

コーラス:
小此木まり、遠藤瑠美子、ダンドイ舞莉花、湊陽奈
白石拓也、山野靖博、森雄基、伊藤広祥、

音楽監督・ピアノ: 島健 演出: 藤田俊太郎


アッキー「皆さん、こんばんはー!僕たちー...」
8人 \ジャージー・ボーイズです!!/
藤岡くん「これで4回目だけど、すっげぇ恥ずかしい!」
アッキー (笑顔で受け流す)

アッキー「このコンサートは春、夏、秋、冬(ここでイントネーションがおかしくなり、やり直し)...」
<ちゃんと言えたので観客から拍手>
それを見た藤岡くん「お前、得してんなぁー!」
アッキー (ニコニコ)

かわいいな、おい。

ペンライトのくだり、
藤岡くん「(青を出していたぴろしに向かって)お前も赤(チーム)じゃねーか!」
ぴろし「どうしたらいいかわからなくなっちゃったから、もういっそ白にしちゃおうかな…」
藤岡くん「お前、今日、赤の大ボス来てるんだぞ!」
というわけで、初演赤チームでニック役を務めた吉原光夫さんがいらしているということが舞台上から明かされてしまいました。
ひっそり見ることは観念したのか、盛り上がる曲が終わると、後ろから光夫さんの「ブラボー」が聞こえてきたのが面白かったです(笑)

カテコのWアンコールでは客席が揺れるほどの”みつおコール”を浴びながら舞台に呼ばれると「ぴろし、すごい歌ってたなー!」と労いの言葉を。客席で聴いていても、その進化ぶりに驚かされましたが、赤チームとして一緒に稽古し演じていた光夫さんからしても、そう感じられたんですね。

ぴろしの舞台挨拶、「なぜかこのメンバーでいると初めての事が全然怖くなくて、力強くて頼り甲斐があって」という部分がいかにもボブらしくて、ニヤッとしてしまいます。
(ちなみに、初演後に行われたアッキーのファンクラブイベントでは、上演期間中の舞台上のハプニングはだいたい赤チームで起きていたとの報告がありました 笑)
初めてのコンサートも、そう思っていたから楽しむことができたのだろうなぁ。

“文化的成長”を促す兄貴たちに囲まれたボブと藤田さんをはじめとするスタッフの方々や音楽的に経験豊富なキャストに引き上げられたぴろし(もちろんものすごい努力をしているのだと思いますが)、とても近いものがあるんですよね。だから、私にとって彼のボブが魅力的なのかもしれません。

「真実の愛」を歌い終わってからフランキーとトミーのハグ拒否→ハグと、ボブとフランキーのパートナーシップ結成の握手拒否→握手が、トミーにやられたことをボブにやるという、フランキーを中心とした兄貴分と弟分の関係性の再現みたいで良かったんですよね。
それを初演の赤チームで見られたことが嬉しかったし、本公演では見られないのに、Four SeasonsがよりFour Seasonsっぽいと思えるスペシャル感がありました。
藤田さんすごい!


さて、千秋楽は前方席で見られたので、舞台上のライトが当たっていない場所でのやり取りや動作がいくつか見られました。

「Short Shorts」の直前に待機しているとき、後ろのセンターから出てくるアッキーと下手袖から出てきてセンターにスタンバるぴろしが、暗い中で向き合って目を合わせてからお辞儀し合っているのが、とても可愛いかったです。

そして、冬パートの島健さんのピアノソロに、暗闇の中で軽く自由にステップを踏むアッキーの美しさにハッとさせられました。音楽の中にたゆたうというのは、こういうことを言うのだな、と。

千秋楽、アッキーの歌声はそれはもう素晴らしく最高だったのですが、それにもまして、フランキーの最後の傍白のときの表情と台詞回しに、言葉が出てこないぐらい圧倒されました。
アッキーとフランキーの境目がないというか、溶け合っているというか。
尽きることのない音楽への情熱を宿した目の力に息が止まりそうになるほどでした。

その後のカテコはとても楽しくヒューヒュー盛り上がったのですが、少し時間を置いてこのシーンを思い出すと、放心してしまうようなすごみを感じました。

再演の9月には、この人はどこまで行ってしまうのだろうと少し怖くなってしまいます。

このコンサートがあったことで、再演から登場の彼方トミーとSpiニックが役としてどう動き、フランキーとボブに向き合っていくのか楽しみになりました。そして初演から安定感があった白チームがどう進化/深化するのかも期待が高まっています。

そうそう、カテコの最後の挨拶になって、光夫さんにマイクを渡してしまったアッキーに、スッと自分のマイクを向けたガウチくん。優しい〜。”癒し”ですね(笑)

で、東宝さん、「Short Shorts」の映像はいつ解禁されますか?(結局そこかよ)


2018年5月13日 (日)

ジャージー・ボーイズ in コンサート 5/12 13:00、17:30

@シアターオーブ
マチネ: S席 1階17列 センターブロック
ソワレ: B席 3階3列 センターブロック

フランキー・ヴァリ: 中川晃教
トミー・デヴィート: 藤岡正明(赤)、中河内雅貴(白)
伊礼彼方(青)
ボブ・ゴーディオ: 矢崎広(赤・青)、海宝直人(白)
ニック・マッシ: 福井晶一(白)、Spi(青)

コーラス:
小此木まり、遠藤瑠美子、ダンドイ舞莉花、湊陽奈
白石拓也、山野靖博、森雄基、伊藤広祥、

音楽監督・ピアノ: 島健 演出: 藤田俊太郎


ミュージカル『ジャージー・ボーイズ』をコンサート形式で上演するというのは、世界初の試みだそうです。
2016年の初演の本編映像と、リアルタイムで撮影した映像を大画面に映しながら、春(=トミー)夏(=ボブ)秋(=ニック)冬(=フランキー)それぞれのメンバーの語りで極力本編に沿った形で進行していきます。
しかし、その中で、ダブル(トリプル)キャストで歌ったり、フランキーの曲を他のキャストが歌ったり、アンサンブルが歌った曲をFour Seasonsが歌ったりと、コンサートでしか聴けないスペシャルな仕掛けがありました。

このコンサートに出ないメンバー、再演に出演しないメンバーも含めて、『ジャージー・ボーイズ』に関わった人全員の存在を感じる演出で、大音くんが阿部さんと石川くんと前日のゲネプロを見たとツイートしてくれましたが、客席から見て自分たちが確かに『ジャージー・ボーイズ』という作品の中にいると実感できるのは嬉しいだろうと思いました。藤田さんの愛ですね。

フランキーが「僕は古いタイプの人間だから、一緒に世に出るってことは、それだけで約束みたいなものだし、それは鉄の絆だ」とトミーを見捨てなかった理由を語りますが、「初演で一緒に『ジャージー・ボーイズ』という作品を作り上げたカンパニーは”ジャージー・ファミリー”のようなものだ」と、藤田さんにも当てはまるような気がします。

初回公演終了後に特別舞台挨拶(詳細はげきぴあさんでどうぞ)があり、その中で藤田さんが『ジャージー・ボーイズ』脚本のリック・エリスさんの言葉を紹介してくださいました。

「この『ジャージー・ボーイズ』は観客ひとりひとりのものです。そしてこれは、バックステージ、スタッフ、舞台上にいるミュージシャン、バンド、作品を影で支えるそれぞれひとりひとりの物語でもある」

人それぞれの人生には、ハッキリとした形でなくとも、また、順番は違ってもFour Seasonsと同様に春夏秋冬があるはず。季節はめぐり、人や状況は変わる。
聖人ではない、多くの失敗と挫折と絶望を積み重ねていくFour Seasons。それでも彼らには音楽がある。

「誰より愛をくれる人は誰?」
本編最後で歌われる「Who Loves You」の歌詞、それはフランキーにとっては音楽であり、この作品を見ている観客にとっては舞台上に立つ彼らである。
フランキーの音楽に対する思いの強さが、希望となり、私たち観客を照らしてくれているように思います。


「俺、トミー・デヴィート」「俺がトミー・デヴィート」「俺が、トミー・デヴィート」
ヤンチャが過ぎた赤の藤岡トミー、ええカッコしぃで追い詰められた白の中河内トミー、新生・青の伊礼トミーはふてぶてしい感じ。
三者三様のトミーでとても良かったです。

「伝説の赤」と、客席にペンライトの色を赤にするように脅迫、違った、強要する藤岡くん。
台詞が飛んで藤岡くんに無茶ブリする伊礼くん。
舞台挨拶で「僕はアッキーさんが居やすいように、居心地がいいように癒しとなるべく頑張ります。TEAM WHITEは向こう(赤と青)と違って温厚なチームですから」と、続投チームとしてコメントする中河内くん(反対側で膝から崩れ落ちるぴろし)。
個人的に「Big Girls Don’t Cry」のAメロでのガウチくんの肩の動きが最高だと思っているので、歌割りが白チームで嬉しかったです。

ぴろしボブ、頑張りました!
海宝くんがギリギリのスケジュールだったこともあるのか、キッカケの確認が必要な箇所の多くはぴろしくんが担当していたように見えました。

私は本当にぴろしボブが好きなのです。
今まで末っ子ポジションだったフランキーに出来た弟のような存在だけど、いつのまにか音楽という言語を通して強く結びつき、2人で高みに登っていく。
初演ではヤンチャな赤チームの中だからこそ、2人のニコイチ感が可愛らしく特別に見えました。青チームではどうなるのでしょうか。

そして、彼の歌の成長に驚かされました。
「Oh, what a night」はもちろん、ボブ・クルーの下でバックアップコーラスをするシーンでは、戸井さんの超高音パート(通称“いま雨が”おじさん)と阿部さんの男臭いパート両方にチャレンジ。
コンサート自体が初めてだとのことですが、夜公演では観客を煽る仕草もあり、色々な挑戦も楽しめているように見えました。

海宝くんは、フランキーとメアリーの曲「My Eyes Adored You」と、バックアップコーラスでは、まりゑちゃんのパートを。
音程だけではなく音色を合わせるというところまで持っていくというジャージー・ボーイズのコーラス。
白チームの安定感は、海宝くんの歌唱力と実力があってのもの。
それが「フランキーを世に出すのは自分だ」というボブの自信に繋がっているように見えて、クールでクレバーな白ボブ像を作り上げていたと思います。
どう深めていくのか楽しみです。

「Dawn」は藤岡くんの合図から全8人で。
さすがにコーラスの厚みがスゴい。その中から浮かび上がるフランキーの歌声の頼もしさ。

最初にフランキーに歌のテクニックを教えてくれたニック。どんなことがあっても「みんなと一緒だ」とついて来てくれるという安心感。
福井さんと、光夫さん、そしてさらに身長の高いSpiくんの大きさは、その余裕のようなものに視覚的な説得力がありました。
だから、フランキーもボブもトミーも甘えてしまったのだと。

白ニックの福井さんは、飛び道具な役割。
それまでバランスが取れていたトミーの借金が発覚した後の爆発力は物語を大きく動かす。
福井さんのソロ曲が意外性があったかも。

Spiくんはニック役としては未知数なのですが、「Beggin’」では体全体でリズムを取る感じで躍動感がありました。
でも、カテコライブの「Big Girls Don't Cry」のSilly Girl〜♪で自分から白ニックの福井さんに絡みに行くあたり、もうちゃんとニックでしたね(笑)

そして、冬のパート、フランキー。
冬パートは大画面に壇上のカメラで撮影されているリアルタイムでの映像も初演の映像も映されない。フランキーを演じるアッキーの声だけで物語を紡いでいく。
それだけアッキーの歌に力があるということ。

天使のような歌声の春パートでは、トミーたちの後ろでキュートにペンライトを振っている様子がまさに天使かと思いましたね??なんだあの可愛い生き物。
夏はオリジナルFour Seasonsの全盛期。照りつける夏の太陽のように強力なヒット曲と雲まで突き抜けてしまいそうなフランキーの高音。
秋から冬は、台詞に人生経験を積んだフランキーの凄みが感じられました。

ジェットコースターのような展開でも、勢い任せにせず、丁寧に台詞を紡ぎ、歌う。
アッキーのお芝居の好きなところです。

新しいFour Seasonsを集めてヒットチャートに返り咲く貫禄たっぷりの「Walking My Way」の後に続く悲劇。

春パートで、トミーがフランキーの声を聴いて「Earth Angel」を歌い、冬パートでは、フランキーがフランシーヌを思って「Fallen Angel」を歌う。
地上に堕ちてきた天使が自分の天使のために歌うラブソングの美しさは神聖なレクイエムのようにも感じます。

ここまで、いろいろ書いてきましたが、このコンサートを通して中川晃教って最高じゃない?ってところに帰結してしまう。
大正義・中川晃教、大天使・中川晃教。

舞台挨拶で藤岡くんが「演出家に嫌われたので再演には出られないんですが(藤田さん: 私は藤岡正明さんが大好きです!!)」とジョークを飛ばしていましたが、9月からの再演には出演しない藤岡くんとアッキーの絡みがたくさん見られたことは、私にとって素晴らしい経験でした。藤田さんありがとう。

「真実の愛(A Sunday Kind Of Love)」で向かい合って声を合わせて歌うアッキーの充実した表情、カテコライブの「Can’t Take My Eyes Off You」で藤岡くんがアッキーの歌にアレンジをかぶせて楽しそうに笑い合う様子。
この作品と音楽が2人の出会いを喜んでいるようでした。

さて、このコンサート、ほぼ本編を見たような満足感があるのですが、「Four Seasonsという名前でグループがひとつになった瞬間」と、ボブ・クルーに曲が認められた場面は再現していなかったのです。(もっくんボブ・クルーの印象的なあの台詞もお預け)
Four SeasonsがFour Seasonsになるその瞬間は、本編を見なければわからない。

世界初のコンサートバージョンを経た9月の再演がますます楽しみになりました。

あと、東宝さん、ひとつお願いがあるのですが、Short Shortsのアッキーがめっちゃ可愛かったので、映像を売ってください。(これで締めるのかよ)

2018年4月28日 (土)

お月さまへようこそ 4/25 19:00、4/26 14:00

@CBGKシブゲキ‼︎
25日: F列 センターブロック
26日: D列 センターブロック

海宝直人 宮澤エマ
西川大貴 吉田沙良(ものんくる)
中村翼 畠中洋

作:ジョン・パトリック・シャンリィ
演出:吉原光夫

『お月さまへようこそ』は、「赤いコート」「どん底」「西部劇」「喜びの孤独な衝動」「星降る夜に出かけよう」そして表題作「お月さまへようこそ」という6編の短編から構成される戯曲だそうです(ちょっと調べた)。

タイトルにも使われていたり、6編を通して何回も出てくる”月”というモチーフは何らかのメタファーのはずだという思い込みがあったのですが、”月”はただそこにあって、スポットライトより淡く優しく、彼らを照らしてくれるだけ。
あぁ、私はつまらない物の見方をしているなぁと思わされました。

パンフレットやポスターに、それぞれの短編のタイトルの表記がないのは、短編ごとに切り替えて見るのではなく、全編をひとつと考えて欲しかったのかもしれない。
6編は明確に繋がっているわけではないけれど、見終わった後に、少しだけ自分の周りを温かく見てみたいという思いになりました。

人はいつでもひとりぼっち。
誰かにわかってほしくて、分かち合いたくて。
そんな想いを抱きながら生きていかなければいけなくて。
でも、人生のほんの数回、他人とバチッと繋がれる瞬間が訪れる。その美しさと少しの滑稽さ。

「人生は素晴らしい!」と堂々と肯定する光り輝く太陽のような強さはないけれど、月光のように、じんわりと、「人生、こんな綺麗なところもたまにはあるよね」と受け入れられる。

開演前に1曲、キャストのパフォーマンスがあったのですが、初日が25日夜が西川大貴さん、26日が吉田沙良さんでした。

西川くんは、ユニット“かららん”から「逃げのびるだけでいいだろう」を。
この曲には「自分をわかってほしい わかってほしくなんかない」という歌詞があるのですが、それがこの物語の導入に書き下ろしたのかのようにピッタリで、完璧な推理小説を読んだときのような一種の爽快感さえ感じました。

わかってくれる人がいる。
ひとつの考えを分かち合う相手がいる喜び。

それが「響人」という空間に、それぞれが別のベクトルで動いているこのメンバーが集まって、ひとつのものを作っていくというところにもちょっとだけ似ているかな?とも思ったり。

客席から見える大きな月。
吉田沙良ちゃんを初めて見たのは、青山のライブハウス”月見ル君想フ”でやった響人主催のキリンジのトリビュートでした。
それから、“かららん“のクリスマスイブイブライブのゲスト出演も、同じく”月見ル君想フ”。

だから、西川くんと沙良ちゃん、そして奥に佇む月という組み合わせがすごく自然に見えました。

ポエットとラブ。
自由なカウボーイと家に閉じ込められた女の子。

「どん底」での、寄り添う愛。
「西部劇」での、離れたところからでもお互いに面識がなくても、影響を与える、繋がっていると思わせる存在。
対照的な2人の関係性を、西川くん×沙良ちゃんという、同じ組み合わせで見られたのが良いアクセントだったと思います。

エマちゃんと海宝くんは、甘酸っぱさ担当でしょうか。
特に「赤いコート」は見てる方が恥ずかしいぜ的な「好き」の応酬。好きだから好き。自分は1人ではないという確信。それは、理性とか羞恥心とか吹っ飛ばしてしまうんだなぁ。

オーディションで選ばれたという中村翼くん、表題作「お月さまへようこそ」での居方がとても素晴らしかったと思います。
西川くんも新境地のコメディだったのでは?
自殺したい男とその原因。それがいきなりのハッピーエンド!時にそんなこともある、それが人生。

畠中さんは、人を打ちのめす役柄もあれば、若者たちを優しく見守る役もあり、まさしく我々が人生で出会っていく大人を体現していらっしゃいました。
“時テキーラ”最高です(笑)

私たちの人生には、はじまりが何度もある。
良いこと、悪いこと、月のように満ち欠けを繰り返しながら、日々を生きていく。
それは、ちょっと素敵なことなんじゃない?と思えるような作品でした。

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