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2020年1月26日 (日)

フランケンシュタイン(再演) 1/25 中川×小西

@日生劇場

S席 1階L列下手側


ビクター・フランケンシュタイン/ジャック: 中川晃教

アンリ・デュプレ/怪物: 小西遼生

ジュリア/カトリーヌ: 音月桂  

ルンゲ/イゴール: 鈴木壮麻

エレン/エヴァ: 露崎春女  

ステファン/フェルナンド: 相島一之

朝隈濯朗、新井俊一、岩橋大、

宇部洋之、後藤晋彦、白石拓也、

当銀大輔、丸山泰右、安福毅、

江見ひかる、門田奈菜、木村晶子、

栗山恵美、水野貴以、宮田佳奈、

望月ちほ、山田裕美子、吉井乃歌

リトル・ビクター: 大谷臣

リトル・ジュリア: 浅沼みう

音楽: イ・ソンジュン 、脚本・歌詞: ワン・ヨンボム

潤色・演出: 板垣恭一


これは私の妄想。

自分で読んでも気持ち悪い( ˘ω˘ ) スヤァ...









この回のビクターは登場したときから、アンリを手に入れることしか考えていない顔をしていました。戦場でアンリを見つけたときの目の輝き。


アンリは研究を手放し、戦場でたくさんの死を見て、人間は孤独に死ぬしかないと思っていたのに、ビクターに見出される。

初演のこにアンリはそれを「死ぬべき場所」を見つけたと位置付けているようでしたが、再演のこにアンリは、ビクターに出会い求められたことで、少なくとも自分はこの相手と繋がったと思ったように見えました。


ビクターが狂気という亡霊から周囲に遠ざけられ孤立していたのと同じように、アンリもまた学生時代に生命創造の研究に没頭して何もかもを、もしかしたら自分自身さえも失ってしまったのではないでしょうか。

「僕には親がいない、だけど君がいるから大丈夫さ」それは酔いに任せた本心の吐露で、アンリの方こそがビクターの魂に共鳴してしまっていた。

だから、アンリは生き方を、そして死に方をビクターに委ねたのかもしれません。魂で繋がっている同志として。


ビクターには、ルンゲがいて、エレンがいて、ジュリアもいる。それならば、自分は生命創造という夢の中で生き続けることになってもいい。自分がいなくなってもきっとビクターは研究は続けるという確信がアンリを突き動かした。


晃教ビクターは初演から一貫して周囲に対して閉じて閉じて閉じた人物像を形成していて、そんな晃教ビクターにとってアンリは初めて自らが求めた相手で、”亡霊”に囚われずに親しい関係を築いた最初で最後の人物。

短い関係性の仲でも、アンリが差し出した犠牲は自分のためだと一瞬で悟ってしまった。だからこそ2人の未来を実現できる可能性がある”新鮮な材料”への気持ちが湧き上がってもくる。


「君の夢の中で」は、アンリからビクターへのラブソングでありながら別れの歌でもあるけれど、一方、ビクターにとっては、彼が見せた一瞬の弱さの背後で、新たな愛の始まりが芽生えた瞬間なのかもしれません。

リトルビクターが母を失った後「生き返らせるんだ」と死体を背負って家に戻って来たように。

この回の晃教ビクターの中には確かに小さなビクターが共存していたと感じました。


ちょっと話は先に行きますが、2幕のエレンとの思い出で、晃教ビクターが泣かない(泣けない)のがすごく好きで。あの部分、晃教ビクターは”今”のビクターではなく、リトルのままなんだと思うんですよね。母を失い父も亡くし母を愛する気持ちから出た行為を魔女の仕業と攻撃されて泣くことも出来ない男の子。


そんな心のままアンリの首を使った生命創造が成功したときのアンリという愛する存在を再び手に入れたビクターの純粋な喜びが本当に子どもみたいでした。


こに怪物は、怪物として生きているのだけど、知能が高いばかりに、人間の残酷さや狡猾さも感じとれる一方、おそらく実験日誌から研究以外の端々に書かれたことも読み取れてしまったのではないでしょうか。

人間への憎しみも込めてひたすらに復讐の名の下にビクターを試す。


晃教ビクターは、怪物の様々な挑戦に打ちのめされてもなおアンリに対する愛を根底に持っていて、怪物の中にアンリを見ている。

「後悔」は、人間である自分が生命創造という禁忌に歯向かった後悔ではなく、ビクターが身も心も怪物のもとへと向かうことに対しての世界への決別宣言。ビクターが泣くのはアンリのため。自分のために涙は流さない。


「傷」で怪物は「どう生きるのか どう恋をして どう死ねばいい」と歌いますが、こに怪物はその答えを求めて北極に行くと思うのです。本当にビクターがやってきたとき、彼はそれをビクターに決めて欲しかったのではないでしょうか。

ビクターに致命傷を与え自分も撃たれた後、「その傷ではもう動けまい」と言ったときには、怪物は怪物として死ぬつもりだったはず。

しかし、晃教ビクターは最後の最後までアンリとして彼を追ってきて、こに怪物に「ビクター」って呼ばれて両手を天に突き上げ喜びに打ち震える。

頭をビクターの膝に乗せられたときにうっすら笑うこに怪物。そのときに死に方を創造主ビクターに委ねたのではないかな。「お前はやっぱり俺をアンリと呼ぶんだな、それならばそう思うがいい」と。

怪物なのに、そこが1幕のアンリと繋がった気がして、なんだかすごく納得したんですよね。


晃教ビクターのラストは、怪物の顔と首の傷そして身体を愛おしそうに撫でてから、さぁまた目を覚ませ!というように拳を振り下ろして「(アンリを作った)俺は フランケンシュタイン!」でした。

アンリの願望のように君の夢の中で生きたし、これからは、怪物が願うように夢の続きを生きるのではないか。 

これをハッピーエンドと呼ばずして何と呼ぶのだろう。



休演日明けでみんなピッチピチ。

音月さんはいつもはカトリーヌの方が印象に残るのですが、ジュリアのピュアさが際立っていたと思いました。


この回はエヴァちゃんの「欲と血の世界」がキレッキレで素晴らしいMAD DIVAっぷり。その影響を受けてジャックちゃんの「お前は怪物」がかなりアレンジされたバージョンになっていて、2曲とも2人のシンガーとしての実力を発揮するショーナンバーとして見応えがありました。


アッキーのジャックちゃんはエヴァちゃんとラブラブなところは可愛いけれど、ところどころすごい冷めているところがあって、それが周囲から閉じていたビクターと少しリンクする部分もあって好きなのです。

まったく別の役だけれど、同じ役者がやる意味っていうのをそういうところで見せようとしているのでは?と思ったり。

また、晃教ビクターが対こにアンリにも和樹アンリにも「ただひとつの未来」の握手を「君の夢の中で」でリプライズさせているのがすごく好きで。ミュージカルの様式美をきちんと踏襲した上でそれがその場面に最もふさわしい感情表現になっている。

アッキーの脚本を読み解く力とそれを演技に立ち上げる力の確かさに脱帽しかないのです。


中川×加藤ペアは美しく爆発し、中川×小西ペアは低温でジワジワと燃え続けるような印象が観劇後に残って、DVD公式ペアではないゆえに、ひたすら反芻したい味わいがあるんですよね。




2020年1月21日 (火)

フランケンシュタイン(再演) 1/19 中川×加藤

@日生劇場

S席2階A列上手側サイド席


ビクター・フランケンシュタイン/ジャック: 中川晃教

アンリ・デュプレ/怪物: 加藤和樹

ジュリア/カトリーヌ: 音月桂  

ルンゲ/イゴール: 鈴木壮麻

エレン/エヴァ: 露崎春女  

ステファン/フェルナンド: 相島一之

朝隈濯朗、新井俊一、岩橋大、

宇部洋之、後藤晋彦、白石拓也、

当銀大輔、丸山泰右、安福毅、

江見ひかる、門田奈菜、木村晶子、

栗山恵美、水野貴以、宮田佳奈、

望月ちほ、山田裕美子、吉井乃歌

リトル・ビクター: 大谷臣

リトル・ジュリア: 山口陽愛

音楽: イ・ソンジュン 、脚本・歌詞: ワン・ヨンボム

潤色・演出: 板垣恭一


初日以来の中川×加藤ペア。やはり初日は慎重だったんですね...。

和樹アンリの純粋性は極限まで研ぎ澄まされ、晃教ビクターの内なる怪物性(=人間ではない何か、神性)は身体を駆け巡っていました。


初演はビクターに出会ったことで救われた、彼とともに生きたいと願った和樹アンリ。

再演ではビクターが彼にとって生きる意味、信仰の対象にさえ進化していたように思えます。

牢獄に来たビクターを笑顔で見送り、何の迷いもなく、むしろ清々しささえ漂わせて断頭台に向かった。

アンリはビクターのために殉教したのだ。


でもなぜ、和樹アンリにとって晃教ビクターがそれほどまでの存在になったのでしょう。


ビクターがアンリに自分の理想を語るのは「ただ一つの未来」だけで、一緒に研究はしているもののアンリとどう関わっていたのか劇中で具体的な描写は提示されないままなんですよね。

そこはどうやっても肉付けできないわけで、ビクターをどう表現するのかというのは実はすごく難しいのではないかと思いました。


ビクターのカリスマ性はやはり生命創造に対する情熱で、アンリが”普通の”人間の感覚として「これ以上踏み込んではいけない」と感じたものはビクターにとって何の意味も持っていない。

だいたいの人間は、世間の視線に負け、雑事に負け、そして自分に負ける。しかし、ビクターは常識や、倫理感といったものに縛られず、自分のやりたいことに没頭している。

それがアンリにとって太陽のように眩しく、神々しく思えたのかもしれません。たとえそれが人の道に背く行為をしていたのだとしても。


ひとつ前の記事にも(冒頭にも)書いたのですが、晃教ビクターの特徴は、普通の人間としてアンリを大事に思う気持ちと生命創造への欲望(人間ではない何か=怪物性)の間を行き来していること。

特徴的なのが「殺人者」と「後悔」。

「殺人者」では、自分の内なる声を認めたうえでそれでも自分は人間だという結論に行き着きますが、歌詞一節一節の表情の変化に、ビクターの中でものすごい変化が起こっていることが分かります。殻を突き破って出てきそうな何かを堰き止めようとするせめぎ合い。


一方、ジュリアが殺された後に歌われる「後悔」は、晃教ビクターのラストシーンに向かううえでキーポイントになるところだと思います。

エレンもジュリアも怪物に殺され、自分が生み出したものの恐ろしさに打ちひしがれる。

しかし、晃教ビクターの「後悔」は”やってしまった(生命創造に手を染めてしまった)”ことへの後悔を歌ったものではなく、僕が人間でなければこんなことは起きなかったのに、という後悔に思えるのです。ひとりの人間の行いがこの悲劇を招いたのならば、自らが”人間である”ことを手放してしまえばいいのではないか、と。



怪物は、闘技場での経験から人というものの残酷性と少しの愛を学びます。

怪物にとってただひとつの優しい思い出のあるカトリーヌから教えてもらった、人間がいない北極という場所。

創造主を心から憎んでいるのであれば、自分にとって大切な場所に呼び出すでしょうか。


そう考えると、怪物はあれからずっと誰かに抱きしめられたかったのかもしれません。創造主が自分に命を与え、この苦しみを味わわせたのなら、苦しみを終わらせ安らぎを与えるのも創造主の役目なのではないか、夢の続きを見せる力があるのは自分をつくった創造主だけなのではないか。

エレンもジュリアもいなくなれば、創造主は自分のところにきっと来る。それが復讐。



北極で相まみえたのは、創造主を求める怪物と、自ら人間であることを放棄した怪物。

ビクターはもう人間ではない。彼を抑えていた理性はぶっ飛んでしまっている。最期が迫ったとき、ビクターの視界と聴覚がつかまえたのはかつての友・アンリの姿。


アンリが自分に託した生命をここで諦めていいのか!

生命創造という夢のために繋がった2人が、ここで終わっていいのか!

お前は、アンリが憧れたビクター・フランケンシュタインではないのか!


ビクターは咆哮し、怪物は夢の続きを見る。


これは勝利の物語。 呪、亡霊、人間社会、科学、神。あらゆるものに対して2人の怪物は勝ったのだ。

だって、”Victor”は勝者なのだから。


2020年1月15日 (水)

フランケンシュタイン(再演) 1/8 中川×加藤、1/13 中川×小西

@日生劇場

1月8日(18時) S席1階D列上手側

1月13日(17時) S席1階A列下手側


ビクター・フランケンシュタイン/ジャック: 中川晃教

アンリ・デュプレ/怪物: 加藤和樹(8日)、小西遼生(13日)

ジュリア/カトリーヌ: 音月桂  

ルンゲ/イゴール: 鈴木壮麻

エレン/エヴァ: 露崎春女  

ステファン/フェルナンド: 相島一之

朝隈濯朗、新井俊一、岩橋大、

宇部洋之、後藤晋彦、白石拓也、

当銀大輔、丸山泰右、安福毅、

江見ひかる、門田奈菜、木村晶子、

栗山恵美、水野貴以、宮田佳奈、

望月ちほ、山田裕美子、吉井乃歌

リトル・ビクター: 大谷臣(8日、13日)

リトル・ジュリア: 山口陽愛(8日)、浅沼みう(13日)

音楽: イ・ソンジュン 、脚本・歌詞: ワン・ヨンボム

潤色・演出: 板垣恭一


なぜ、人は人を生き返らせてはいけないのか。

それは「人は生きて死ぬ」という自然の摂理に逆らうことだから。もしくは、一神教の世界であれば、生命をおつくりになれるのは神様だけだから、なのかもしれない。

その掟に従わぬ者は人間ではない。怪物だ。


でも、人間としての倫理観を養う前に、大好きな母親が死んでしまったら?

小さな子どもが病気の母親のために出来ることと言ったら、母親が死なないように祈ることだけなのかもしれない。しかし、その想いは届かず母親が死んでしまったら、子どもが、いや、ビクターが、神様を呪いの存在に位置付けてしまうのは当然なのではないだろうか。

ビクターの生命創造に対する欲求は、彼が狂っているからではなく、むしろ、愛する者に生き返って欲しいと願うのは感情として自然なことだとも思う。

ビクター・フランケンシュタインの場合、その純粋な願いを願いとして心に留めておくのではなく、実行に移してしまえる頭脳と意志の強さがあった。それが悲劇のはじまり。


この『フランケンシュタイン』は役者が別役を演じる二重構造を取るが、分別があるように見える(当時の一般人としての存在)エレンがエヴァとしていちばん残虐な振る舞いをし、「怪物はどこにでもいるよ」と客席を見回すことで、人間誰しも(あそこまでの暴力性はなくとも)心の中に怪物を飼っていると示唆している。

そのメッセージは分かりやすいけれど、今回再演の中川ビクターは、ビクターの中でも、人間である部分と人間が踏み込んではいけない生命創造への欲求に抗えない怪物である自分との間を行き来しているように見えました。


肉体的に変異あるものだけが怪物なのではない。人間の思考もまた怪物であり、怪物を生むのだということ。

純粋な思いから生まれた欲求であっても、怪物の思考となりうるのだということ。

アッキーはかなり観念的なところに踏み込んだ役作りをしているのではないでしょうか。

あえて目ですぐに見える大きな変化を用いず、ビクターの中に渦巻く感情があると見せている。


初日の和樹アンリ/怪物は純粋な心の持ち主。

ビクターはアンリをアジテートして自分の側に引き込み、アンリはビクターに心酔するようになる。

ビクターにとってアンリがそばにいるのは当然のことだし、アンリはキラキラと光る存在のそばにいることが自分の存在価値だと信じている。

しかし「ビクターのためになるなら!」と潔く断頭台にのぼる和樹アンリが再演の新発見。大人になったな和樹アンリ。お前、初演ではベショベショに泣いてたじゃねぇか。


怪物になったときはまるで赤ちゃん。

ひとつずつ”初めて”を経験し、身体の痛みによって大人になっていく。

自分をひとりにしてしまった”創造主”に会いに行くこと。それが彼の望みでありビクターへの復讐。

戦場でアンリはもともとひとりだった。

北極でビクターと対峙する時間は、また新たに出会い直す時間だったのかもしれない。2人は一緒にいることが当然なのだから。


一方、こにアンリ/怪物はとても理知的。

ビクターは自分と同じレベルで物事を共有し合える仲間が出来て一気にアンリに信用を置くようになるし、アンリはビクターの歪(いびつ)さも含めて彼を見守るようになる。

再演こにアンリ、めちゃくちゃお母さんでした。包容力たっぷりのお母さん。可愛い息子のためなら命も投げ捨ててしまうお母さん。なぜそうなった??? 初演のときは3秒目を離したらすぐ死にそうだったのに!


こに怪物は言葉を獲得する過程は外国語を学ぶような、もともと知能は高い感じ。

人間にされた仕打ちの意味を思索することで自らをグレードアップさせていく。そして、人間の心に棲む怪物の存在に気づきく。ビクターに研究の失敗を伝えるというのが彼の復讐。

息子が間違ったことをしたらそれを正すのがお母さんの役目ですからね(違う)。



しかし、再演の中川ビクターはヤヴァい。

ビクターの生命創造に対する執着の出発点は”愛する人を生き返らせる”こと。

ジュリアを殺されたところでようやく自分の過去を後悔するけれど、北極でアンリの顔をした怪物に自分の名前を呼ばれれば、そこにアンリを見て己の正当性に目の奥が輝く。

「見ろ、実験は成功したじゃないか!!」


“フランケンシュタイン”という固有名詞が”怪物”の名前だと思っていたというのはテッパンの勘違いなんだけれど、「俺はフランケンシュタイン!!」という名乗りはまさしくビクターの中の人間の部分が怪物に侵食されてしまったことの証明だったのではないだろうか。

ヤヴァいよヤヴァいよ中川晃教。


和樹アンリは初日だということもあり、印象としてはまだ大人しかったかもしれません。

これからどう進化していくのか楽しみです。

 


ビクターが「死」から「生」を産み出そうとする禁忌を犯すというテーマの一方で、再演は今そこにある「生のエネルギー」が強くなったと感じました。

再演で大きくキャラクターが変化したのが、コロッセウムで非道な扱いを受けるカトリーヌだと思います。

初演はその残酷な境遇の哀れさが突出しており、怪物の飲む水に薬を入れるのは、フェルナンドに唆されて止むに止まれずという印象が強かったのですが、再演のカトリーヌからは自分がこの環境から抜け出したいという強い意志が感じられました。

死んでしまった方が楽になれる生活なのに、生きても意味がないのに、一縷の望みに懸けてでも、という生への渇望。

音月桂さん、渾身のパフォーマンスでした。


また、カトリーヌのような(言葉は悪いけれど)底辺にいる人間であっても、自分の下にいると見なした相手に対して差別的な言動をとってしまう”怪物性”をより鮮やかに見せていたのも印象的でした。


もう一つの変化は、プリンシパルキャストでただひとりのチェンジだった露崎春女さん。素敵なシンガーであることはもともと知っていましたがなんと初舞台!!初舞台が『フランケンシュタイン』って、もう他に怖いものはないような気がする(笑)


で、エレンなのですが、結論から言うと私はめちゃくちゃ好き。

露崎エレンは当時としてごく普通の生活をしている少し裕福な一般的な女性で、特別な男の子のビクターをただただ心配しているだけに見えます。初舞台の良い意味で舞台慣れしていない部分が、ビクターの姉として肩身狭く生きてきた感じに上手くハマっているのです。

彼女にあったのが愛情だけだから「その日に私が」が余計に悲しく刺さる。


エヴァちゃんはかなりマッドに振り切れた女性に造形しており、初演は小物感満載だった中川ジャックが経営者的な立ち居振る舞いをしているのが面白い。そうしないと闘技場が成立しないぐらいにエヴァちゃんの頭がおかしい。好き。



ルンゲの日替わりネタとか、中川晃教の「後悔」の歌唱は絶品!!と書きたいことはまだありますが、ようやく1クールが終わった今思うのは、『フランケンシュタイン』ってこれからリミッターがはずれてからが本番みたいなところがありますよね...ということだったり。


私たちが北極で見るのは、光なのか闇なのか。

同じ回を見ているのに人によって感想が違うのは、もしかしたらビクター/アンリを通して自分の心をそこに見ているのかもしれません。


2020年1月 8日 (水)

『You’re a Good Man, Charlie Brown』1/5 13:00

@シアター風姿花伝


スヌーピー: 佐山陽規

チャーリー・ブラウン: 鈴木雅也

シュローダー: 清水優譲

ライナス: 海老原恒和

ルーシー: 石垣エリィ

サリー: 平川はる香

安田早希、山本沙羅

鶴岡政希、小島光一朗、


音楽監督: 伊藤靖浩

演出: 赤澤ムック

企画・製作: Sweet Arrow Theatricals


2017年に『きみはいい人、チャーリー・ブラウン』のタイトルで東宝が上演していますが、2019年にSweet Arrow Theatricals(通称: すいあろ)という団体が、別の形で上演することとなりました。ちなみに、19年版を見たときのツイートはこちら。 → https://twitter.com/yuni__ko2/status/1144576351942299650?s=21


2020年の観劇始めはやっぱりハッピーな作品がいいよね♪と、急遽チケットを取って再演にも行ってきました。この後に待ち受けているのが『フランケンシュタイン』ですからね...。


すいあろ版で特徴的なのが、客席を縦断するように配置されたセットと複数キャストの組み合わせ。他のお客さんと受付の人のお話しがチラッと聞こえたのですが、なんでも、同じ組み合わせは1回もないとか。まさしく一期一会。


この日のチャーリーは、ヴィジュアルだけ見るとシュッとしたハンサムさんだったのにちゃんと残念だったし、サリーはお兄ちゃんの分まで動き回るお転婆ちゃんだったし、ルーシーの自己肯定感高めなところは見習いたいし、ライナスはかなりガタイがいいのにきちんと年下に見えるし、シュローダーはスマートな男前っぷりを発揮していました。

佐山さんのスヌーピー、犬小屋から飛び降りるし、滑り台から降りてくるし、サパータイムはかっこよく歌って踊るし、本当にお若い!


Wキャスト、トリプルキャストは、キャスト側の負担が大きいと聞きます。しかし、PEANUTSのキャラがきちんと確立されているので、全員が同じ方向にすぐむけるというのは、この作品ならではの強みではないでしょうか。

チャーリー・ブラウンが演者によっていきなりスポーツ万能になったり、頭脳明晰になったりすることはありえないのです(笑)


一見、チャーリーだけが酷い目にあっているように見えるけれど、それは原作者のシュルツ氏がご自身を反映させたキャラクターだからということと、人間それぞれが日々の生活でふと弱気になってしまう視点を彼が持っているからということがあるんですよね。

私たちは皆多かれ少なかれチャーリー・ブラウンの資質を持っていて、だからこそ、彼の失敗に共感し、小さな喜びを一緒に分かち合うことができる。


ちゃっかりしたサリー、女王様気質のルーシー、甘えん坊だけど冷静さも併せ持ったライナス、大好きな音楽に突き進むシュローダー。

時に寄り添いながら、時に混ざり合いながら、時に高みの見物をしながら、犬として物事を人間とは別の視点から見るスヌーピー。

彼らの世界はとても狭いのだけれど、なぜかその中に人生の妙味が詰まっていて、自分にとって幸せとは?と顧みることができる。

幸せは、きっとどこにでもあるもの。

このメッセージが大好きです。


訳詞が東宝版と違うので、ときどき混ざる英語の響きも新鮮。

また、このカンパニーは英語での上演も行います。

もともと英語で上演されたものを、来日カンパニーではなく日本でそのまま見ることが出来るのはなかなか貴重なのでは?

ダイバーシティという考え方が広まってきた昨今、こういった試みが広まっていくといいなと思います。


また、劇場に向かう貸切バスにキャストが役柄そのまま乗り込んだり(特製のクッションを抱きしめながら観劇できる)、劇中に出てくるアイスクリームを食べることができたり、開演前にシアターキャストという役割の方が注意事項や案内を楽しくアナウンスしてくれたり、小回りが利く団体のアイディアが各所に展開されていて、作品そのものも、観劇体験としてもとても楽しめるものとなっているのも素敵だと思いました。





2019年12月30日 (月)

ミュージカル『(愛おしき)ボクの時代』

2ndプレビュー: 11月23日 17時30分

本公演: 12月4日 18時30分


天羽尚吾, 猪俣三四郎, 上田亜希子

梅田彩佳, 岡村さやか, 奥村優希

風間由次郎, 加藤梨里香, 塩口量平

四宮吏桜, 関根麻帆, 寺町有美子

橋本彩花, 深瀬友梨, 溝口悟光

宮島朋弘, 吉田要士


<スウィング>

春日希, 隈元梨乃, 土倉有貴

<ピアノ>

上浪瑳耶香, 森本夏生


脚本・作詞・演出: 西川大貴

作曲: 桑原あい

振付: 加賀谷一肇


元号が変わる数々の行事で、今年はたくさんの”日本の伝統”を見ることができました。

雅楽、十二単や直衣、和語を使った言葉の数々...これらはいずれも日本にしかないオリジナルのものでしょう。

しかし、これが現代日本に普通に暮らす私たちのアイデンティティに結びついているか、というのとは別問題。


私たちの根本は、例えば小さなときに聞いた童謡、絵本で読んだ昔話、アニメのキャラクター、流行ったCM、大人気だったアイドル、学校の休み時間のあれこれ、近所のお祭りのお囃子...そういった身近なものによって作られている。

また、70〜80年代にはラジオやTVから流れてくる洋楽が日本のエンターテイメントの一翼を担い、90〜00年代は生まれたときからディズニー(ピクサー)のアニメを見て育った世代。

いわゆる”日本的”なものから遠く離れたところにも、文化的な素地がある。


普段は学校に行ったり仕事をしたりしてつまらない毎日を過ごし、親と喧嘩したり、周囲としっくりいかなかったりして悩んだり落ち込んだりしている。それが私たちの日常。

ほとんどの人は神様にお祈りしないし、ましてや貴族に向かって革命を起こすこともなければパンひとつの罪で刑務所に入れられたことはない。

今の自分たちはドラマチックではない。しかし、それぞれの物語を生きている。


演劇・ミュージカルを見に足を運ぶ人たちはおそらくリピート用のチケットを買うために節約することはあっても、今日明日のご飯の心配やライフラインが止められるような極限状態にある人はいないのではないでしょうか。ちゃんとご飯を食べて、それなりの洋服を着て、生活をしている。はず。


主人公・戸越は父親の経営する小さな広告代理店に勤めているサラリーマンという設定。就活に苦労した側から見れば一見恵まれているように思えるけれど、それでも特権階級というわけではない。

何もかも持ってはいるけれど、満たされない。

そのもやもやは、おそらく観客の誰もが一度は、もしくは現在進行形で抱えている感情なのではないでしょうか。


長々と書いてきたけれど、今の日本が描かれている、今の日本に生きる人々による、日本に生きる人々のためのミュージカル。ボクの時代、私たちの物語。


もやもやと悩みを抱える東京の会社員がちょっと不思議な世界に迷いこんでしまうファンタジー。

”今”の”日本”で”普通に働いて普通に暮らしている”からこその気分や閉塞感や焦りや虚無感みたいなものは確かに感じることができました。


主人公の戸越にしても、何か気に入らないと人のせいにしたり自分のプライドを死守する武士にしても、自分は馬鹿だからと予防線を張るサルにしても、自分に自信を持てないなまはげちゃんにしても、それぞれの恋愛観を持ったきび団子ガールズにしても、「わかるわかる」の連続。

物語の中に、自分と似た人が必ず見つかる。

そのぶん、1つの物語としては散らかってしまった印象も否めない気はします。


戸越、伊豆...。関東圏に住んでいると見覚えのある地名で、天狗なら伊豆より鎌倉とか大山じゃない?なんて、元神奈川県民は不思議に思っていたのですが、この作品、とあるミュージカル、バラしてしまうと『WIZ』の骨子を借りているんですよね。その言葉遊びに気がついたときにフフッとなってしまったり。だから、戸越はトゴシーだったのか。


『WIZ』では、賢くなりたいかかし、感情が欲しいブリキのきこり、強くなりたいライオン、それぞれのソロ曲がありますが、『愛ボク』もこの形式に倣って、サル、武士、なまはげちゃんのソロがあり、さらにそれが『WIZ』の曲のオマージュになっていて、マイケル・ジャクソン大好きな私は嬉しくなりました。 


また、ダンスの面では、シアタージャズやコンテンポラリー、アイドルっぽい振付からヒップホップまで様々なスタイルのダンスを見ることが出来て大満足。

しかし何よりタップダンスが素晴らしく、総踊りとも称したい天狗様のショーシーンは圧巻!そのときの曲が往年のジャズナンバー(I Got Rythemなど)を織り込んだもので、「昔のものを羨ましく思う」と歌ったM1を見事に回収しており、ミュージカルの作法としても良く出来ていたと思いました。


同じ役者が2役を演じること、抽象的なセットやセリフなしのシーンなど、演劇的な想像力を必要とする歯応えはありつつ、劇中で交わされるセリフはいつも私たちが使うような言葉使いで、身近な題材を扱っている。そして音楽は先人への様々なリスペクトを感じさせつつキャッチーに耳に残る作り。


全キャストをオーディションで選び、シングルキャストでじっくりと役を考え壊し直して作品を膨らませていく。これが出来るのは、脚本が日本語で書かれて、その場で説明できる人間がいるというオリジナル作品ならでは。

特に今回はトライアウト公演ということで、プレビューで得たフィードバックを次のプレビューや本公演に取り入れ、どんどんと作品を育てていくという形式をとっていました。

同世代のクリエイティブチームと若手を中心にしたキャスト陣の柔軟性、風通しの良さとスピード感に拍手!


西川大貴くんも話していたけれど、日本の、特に大きなプロダクションの上演する輸入物の作品では、「完成品」を見せることが第一とされているから幕が上がってから気がつくことがあっても変えることはできない。「もっとよくできるのに!」というジレンマを抱えたまま演じることになる。

しかし、海外では、一度劇場に上げたものを稽古場に戻してブラッシュアップさせてまた上演して、という作品も少なくないのだとか。


人が演じて、人が見て、作品は進化する。

「上演して終わり!」というのは、作品に対して愛がないような気がします。

今回、私は2ndプレビューと本公演1回ずつ見ましたが、「ほほぅ、こう変えたのか」「これは前の方が良かったかも?」と思った箇所がありつつ、2回目に見たほうが作品としての完成度は高くなっていたと思います。


また、スウィング制度をきちんと公表したのも、特徴的な取り組み。シングルキャストと書いたけれど、彼らに何かがあったとき、または未然に防ぐという意味で、カバーに入れる人がいるというのは、興業として、および観客に対して誠実だと思います。

(スウィングについては、西川くんやお三方のツイートに熱い思いが綴られているので、ぜひ読んでください)


今、TVの音楽番組で取り上げられるようになるほど、ミュージカルの人気が高まっています。しかし異なる文化的背景を持つ人たちが作った作品を理解することに対してどうしても限界があるわけで、それなら、日本語で書かれた日本に生きる人たちのためのミュージカルが作られることが自然なのではないでしょうか。


様々なインタビューで少なくないミュージカル俳優たちが日本オリジナルの作品を作りたいという発言をしていますが、まず一歩を踏み出したこの作品とクリエイティブチームに心からのエールを送りたいと思います。


幕は下りてもまだチャレンジは続いています。

バンドもしくはオーケストラ演奏、舞台装置...、上を目指せば際限がないものです。

この上演で得たものが大きく成長して帰ってくることを楽しみにしています。


2019年11月21日 (木)

中川晃教コンサート2019 I Sing 〜Soul Beat〜 11/3 17:30

@日本青年館ホール

1階3列目 センターブロック


Gt.: 北島優一  Ba.: 小林修己

Drs.: 髭白健、Pf., Key.: 園田涼


ウィーウィルレットユーゴー

LISTEN

BRAND

恋のGPS 

砂のロープ

WHITE SHINY STREET

I WILL GET YOUR KISS

別れるときに思うこと

君の瞳に恋してる

粒子

Save Our Souls

相対性理論

WHAT ARE YOU AFRAID OF

チャイナガール

音楽の消えることのないダンスフロア

<アンコール>

(今日何してたの?〜神田川リミックス〜)

僕こそ音楽

Family 


今年は目玉のツアーもやったし、白寿ホールの弾き語り、東京文化会館や八ヶ岳音楽堂でもやったし、川崎のミュージカルガラコンサートや夏のBrand New Musical Concert、中島みゆきさんのトリビュートコンサートや若手アーティストたちとのコラボが楽しかったVOICE JAM等々、多種多様な音楽活動をしてきたけれど、『I Sing』はやっぱり特別で全てがここに繋がっていたのだと実感しました。


アッキーのライブって音楽はこんなにも自由で楽しいものなんだと思うのと同時に、長距離選手が後ろからごぼう抜きしてトップでゴールするような、体操選手が着地で1ミリも動かないような、研ぎ澄まされた才能と考えられない努力の結晶に思えます。

トップアスリートになればなるほど自分の中での選択肢が増え、試合中のどんな展開にも対応できるようになり、自分なりの戦い方を組み立てて勝利を勝ち取ったり目標を達成するのだと思います。


『I Sing』はもちろん勝ち負けではありませんが、中川晃教という唯一無二の歌のアスリートがバンドとともに最高の音楽という目標に向かっていく場であり、観客もチームの一員となってともに幸せという最高の結果を味わえる場でもある。

「何を”どのように”歌うのか」という客席の勝手な期待感なんてものは彼が声を発したと同時に消え去り、包まれ射抜かれ自分の内に新しい光を灯すような力が宿る気さえしてきます。


幕開けの「ウィーウィルレットユーゴー」は本来ドキリとするような攻撃的な歌詞をファンキーなアレンジで仕立てた燃え上がるような熱量のある曲ですが、数年前にビルボード大阪で披露されたアレンジは曲を根幹から再構築して同じ曲なのか分からないほど。全体的に落ち着いたジャズのように聞こえるけれどその根底にとてつもないエネルギーを隠しているような、例えるならばドライアイスみたいに危険な感じ。


「LISTEN」「BRAND」とフォーリズムのバンドのカッコ良さがビシビシ伝わる2曲を続けて、MCへ。

「恋のGPS」はアッキー自らコール&レスポンスの動画を作ってくれた、イントロのベースラインがモー娘。の「ザ☆ピース!」に通じるアイドルソングでありソウルミュージックの香りもする1曲。

よく考えれば、音源化してないのにコールやろうとしちゃうというドSっぷりなのに(アッキー自ら認めるw)、可愛いなぁ楽しいなぁと”push push”して”フゥフゥ⤴︎”してニコニコしちゃうのがアッキーパワー。


「砂のロープ」「WHITE SHINY STREET」「I WILL GET YOUR KISS」ではアッキーの最新と原点を一気に行き来する。「砂のロープ」の甘美な響きに癒され、”俺楽しいー!”が溢れ出るWSSのエネルギーを浴び、「I WILL GET YOUR KISS」は園田くんのコーラスが入って進化した原点という感じ。


「別れるときに思うこと」と「君の瞳に恋してる」はシンガーソングライターとミュージカル俳優としての振り幅を見ました。

パーソナルな内容の歌詞を際立たせるような切迫感を駆り立てるメロディーを繊細に届けたかと思えば、世界中の誰もが知ってるポピュラーミュージックを日本でただ1人の本役として手中にしている説得力を持っている。

うーん、アッキー本人が怪人二十面相どころではないのでは?


ツアーを通して大好きになった「粒子」が、ギター、ベース、そしてドラムという強力な仲間を得て、さらに素晴らしい曲になっていて感動!特にサビのときのドラムが後ろからアッキーを前に押し出してくるような静かな迫力があってめちゃくちゃかっこよかったです。

音に対する言葉数が多いという共通点のある 「Save Our Souls」と「相対性理論」。曲調はまったく違うから何回も聴いてるのにこのときまでまったく気がつきませんでした。これだけ言葉が多いのに耳からスッと入ってしまうのはアッキーの発声が美しいからなんだろうなぁ。


終盤3曲は待ってました!とスタンディング。

アッキーが放出したエネルギーを観客が鏡になってステージに跳ね返してさらにアッキーが強く返してくれる。このエネルギーの交歓こそライブの醍醐味。


興奮冷めやらないままアンコールに突入し、もはや定例となったバンドメンバーへの無茶振りコーナー。

「今日はプールに行って〜♪」と歌い始めたアッキーから突然「涼くんは何してたの?」とバトンを渡された園田くんが撃沈し、窮地に陥ったベースの小林くんが起死回生のオサレなベースラインを繰り出し、ドラムの髭白くんがアグレッシブなソロを披露し、やや強面なギターの北島くんがなぜか「神田川」のメロディで締めくくる。

今、ここで生まれた”音”を”楽”しむ姿はある意味スパルタなのにゆるさもあって、冒頭で言ったように選択肢を駆使して挑むアスリートの遊びみたいでした。


「僕こそ音楽」は、テレビで井上芳雄くんと歌った反響が大きかったから急遽セットリストに組み込んだとのことだけど、無茶振りからの流れで「そりゃ、あなたが音楽だわ」としか言いようがない(笑)


「Family」を聴くたびにこんなに優しい歌がこの世に存在するのかと温かい気持ちになります。自分が何かをしてあげたい、何かを差し出したいと思う相手こそがファミリー。

いつも全力を尽くし舞台に上がり観客に向き合ってくれるアッキーに対して観客が出来ることは心からの拍手と歓声を送ることだけ。

曲自体は『ジャージー・ボーイズ』再演の大千秋楽が終わった後に作られたものだから、劇中のボーイズたちやキャストとの繋がりを連想させるものだけれど、こうやってライブの最後に歌ってくれると、客席もas ONEの関係に含めてもらっているようで幸せです。


幸せしかないコンサートでした。

幸せ過ぎて書くのに時間かかり過ぎた(笑)


2019年9月26日 (木)

新作ミュージカル『怪人と探偵』 9/14, 21, 26

@KAAT

9月14日 19時  1階2列目センター

9月21日 13時  1階13列目下手側壁

9月26日 14時  1階7列目上手側


怪人二十面相: 中川晃教 

明智小五郎: 加藤和樹  

北小路リリカ: 大原櫻子

小林芳雄: 水田航生 花崎マユミ: フランク莉奈 

北小路邦麿: 今拓哉  北小路雅子: 樹里咲穂

ネコ夫人: 高橋由美子  中村警部: 六角精児

有川マコト 山岸門人 中山義紘  石賀和輝

齋藤桐人  石井雅登  碓井菜央 菅谷真理恵  

大久保徹哉 咲良  清水錬  加藤梨里香


テーマ音楽: 東京スカパラダイスオーケストラ

作曲: 杉本雄治   音楽監督: 島健

作・作詞・楽曲プロデュース: 森雪之丞

演出: 白井晃


無知を晒すようでお恥ずかしい限りなのですが今まで江戸川乱歩の小説を読んだことがなかったので、上演前に慌てて怪人二十面相シリーズをいくつか読みました。”自分の本当の顔さえ忘れてしまった”と語る怪人の変身ぶりに新鮮に驚いたり、さすがにそれは無理があるな?とツッコミを入れたりしながら...。

怪人二十面相のモデルとなった怪盗アルセーヌ・ルパンの孫(設定)である『ルパン三世』の活躍ぶりの方が身近なので感覚が反転していたのですが、子ども向けの題材だから決まりとしての正義が勝つために小説では最後に怪人が逮捕されてしまうんですよね。人のものを盗むことは犯罪で、犯罪は罰せられるべきもの。それは間違いではない。


しかし、『レ・ミゼラブル』のジャベールの葛藤からも明らかなように、正義がいつも”正しい”のかという苦悩は本作の明智小五郎にも当てはまる。正しさは時に悲しみと痛みを生み出してしまう。正しさと悪は遠く離れた対角線上のものではなく、光があるから影が出来るように分けることができないもの。

盗みを実行する怪人二十面相と企みを阻止する明智小五郎は一対。彼らは一連托生。


先に述べたように、私は怪人二十面相シリーズを全巻読んだわけではなく明智小五郎が出てくる作品も全部読んだことはありません。本作のストーリーを知ったときに、ダークヒーローであるところの怪人には”愛”はどの宝石よりも美しく尊いと賛美するなんていう陳腐なことはしてほしくはないなぁと直感で引いてしまっていました。

結婚しているという設定がまるっとなくなっている明智小五郎。劇中、探偵団の小林くんたちは少年のときから一緒だったという前提は崩れていなかった(探偵団の1人が、子どものときに怪人二十面相に誘拐されたって言っていた)と思うので、小学生〜中学生の少年探偵団を抱えていた彼が、保護した孤児の女の子に惹かれていくというのは”らしくない”と思ったりも。(他の作品を読んでいないので私はそう感じましたが、明智フリークの人はどう思うのでしょうか...)

初見では、この作品を怪人二十面相と明智小五郎の話にしなくてもいいんじゃね?と思ったのは事実。


しかし、怪人二十面相というトリックスターを”鏡”という装置にして、人間は皆仮面を被った生き物であるという主題を提示することに成功していたと思います。


明智小五郎とリリカが怪人二十面相と対峙するとき、仮面を被った自分の存在を突き付けられる。

慶子は明智の正しさゆえに両親を失い、後に自らの素直な心も失った。明智は自分の正しさゆえに愛を失った。両者は時を経て仮面をかぶって生きている。仮面をかぶっているのは北小路夫妻も探偵団もまた然り。


リリカと明智が自らの心を偽り仮面をかぶったのと違って、怪人二十面相は欲望に忠実で、むしろ自分に対してとても誠実であるとさえ感じます。

「愛を盗みたい」という根源的にピュアな感情は、そんなところから生まれたのかもしれません。


ここまでクドクド考えないと、怪人が愛などという不確かなものに興味を持つなんてことを肯定出来ませんでした(笑)

だって、怪人二十面相にはめちゃくちゃかっこいい存在でいて欲しいじゃないですか?愛に喜び、愛に怯え、愛に躊躇う姿なんてカッコ悪過ぎる。


二十面相にとって当初「愛を盗む」ことと「愛したい、愛されたい」ということは違うものだったのではないでしょうか。

向けられた感情そのものが”世界で一番綺麗な宝石”であり、愛によって育まれる関係性の持続や幸せには興味がなかったと思うのです。

リリカの過去を知る明智の出現により、怪人の自尊心や自己顕示欲が嫉妬という感情に結びついて、リリカという存在に執着するようになるけれど、そこで怪人は愛が綺麗なだけのものではないと知る。

そして、彼が本当に愛したのは、自分の片割れとも言える存在だったのではないか、とたどり着きました。


彼が欲しいものは、美しさ。

彼を満たすものは、美しさ、ただそれだけ。

美しさを盗み、美しく盗む、それが美の崇拝者・怪人二十面相。

だから、ラストシーンの鮮やかさには快哉を叫ぶ思いです。

怪人が手にしたのは己の信念であり、何者にもなれるという己の存在証明。

それは”世界で一番綺麗な宝石”よりも美しいものでした。


.....と、私は思いたい(笑)



歌声で人をどこにでも連れて行けるアッキーに、何にでも変身できる怪人二十面相はピッタリだったと思います。

また、彼の滑舌の良さは、怪人の吐露する現実離れしている文語調の言い回しを劇的に引き立たせて説得力を生み出していました。


開幕後から日を追うごとに素晴らしくなっているのは「光が降る、運命を輝かせるために。」。あれは勝利の咆哮、この世の全ての光が降り注いだといっても過言ではないほど、怪人からオーラが発せられていました。

明智が同じメロディーで、自分のエゴのために戦い愛する人を取り戻すと歌っているのですが、怪人が手にしたいのは己の栄光。

そりゃ溢れるカリスマ性がありながらも高みを目指し続けるのですから、手下たちが「怪人二十面相を讃える歌」まで作ってしまうぐらいめちゃくちゃボスのことが大好きなのは納得しかない。


怪人のアジトにいる時点でホーム試合というアドバンテージはあるのですが、アッキー怪人がノリノリのキレッキレで「対決」では明智先生が押され気味に見えてしまう(笑) あー楽しい!!


もうリリカとかどうでもええやん?ってなったときに彼女が歌う「魔法の滅びたこの世界で」が流れをぶった切ってるような気がして。歌詞が言葉のための言葉になっていて、作者の陶酔感の方が勝ってしまっているような。

怪人と探偵の戦いにいきなり令嬢が自我を歌い出し、男の生き方の尊厳をかけた戦いに”けんかをやめて〜〜♪”状態に持ち込むのは本当にがっかり。

あんなことをしなければ、マユミちゃんがつまらない罪を犯すこともなかったのに。


というか、マユミちゃんの扱いやリリカの過去の描写が類型的で古いのが気になったんですよね。

ピシッとスーツを着こなしたマユミちゃんが内心でエッチなことを考えてるとか何のイメージビデオかよ?と思ってしまったし、リリカが愛する人を忘れようとするために自分を傷つけようとする(男性はそれを含めて愛する)というのはいかにも男が考えた女の理想と弱さだよなぁ、と。

一方、自分の仕事をキッチリしてボスに仕える怪人二十面相の手下のネコ夫人や紅蜥蜴には惚れ惚れとしますね。

そして、小悪人な北小路夫妻もベリーチャーミング。



スカパラのテーマ曲「哀愁モダン」は赤レンガ倉庫、神奈川県庁本庁舎、横浜税関、開港記念館などの劇場周辺のレトロな街並みと親和性がありますね。

何回も繰り返される「微笑みの影」の切ない曲調は、特に夕暮れから〜夜のソワレの時間帯に感じる秋の訪れの肌寒さにリンクします。

横浜は文明開化の土地。『怪人と探偵』が日本のオリジナルミュージカルとして、この劇場でこの時期にスタートしたことには意味があったのではないでしょうか。

日本語で作られた脚本と日本語オリジナルの曲。このチャレンジが確かな一歩になるよう、これからも日本発の作品を応援したいと思っています。











2019年9月15日 (日)

a song cycle 『sign』9/12, 13, 15

@日暮里d倉庫

9/12, 13, 15: Dawn   9/13: Dusk

Dawn Cast: 彩橋みゆ、熊澤沙穂、斎藤准一郎、遠山さやか、西川大貴、若松渓太

Dusk Cast: 荒田至法、小此木まり、加賀谷真聡、小林風花、清水彩花、村井成仁


15年の再演、17年の再々演と見て今回4演目。

この上演に合わせて夏休みを取ったぐらい(笑)『sign』は本当に本当に大好きな演目です。

この作品は、日本語で書かれた日本(東京)が舞台の日本で今生きている人たちのためのミュージカル。


この作品の主人公は”東京”。

歴史上の人物も今を生きる私たちも、大きな事件も日常にありふれた光景も同じ目線で描かれています。

名を残した人だけでなく、私たちもこの地に暮らして物語を生きている...だからこそ全ての曲が愛おしい。 


311のとき、東京近辺は命に関わる大きなダメージはほぼ受けなかったけれど、震度5強の揺れ(さらに長野での地震も)を経験し、家具が倒れ塀が崩れ道路が液状化した場所もあった。その中で報道される東北の甚大な被害に「私は何も出来ない」という思いだけを強くした。その感覚は今も根強く自分の中に残っている。


今回、新曲が加わったことでもうひとつ全体のテーマが浮き上がったような気がします。

それは、災害、時代、社会、個人の事情...。人はそれぞれの様々な”生きづらさ”を抱えて生きているのだということ、もがいているのだということ。


新曲「寝巻會」の登場人物は大正〜昭和前期にかけて活躍し、当時としては(いや、今の時代でも?)大胆な行動に出た3人の女性たち。

自分の心の声に素直に従ったまでなのに、なぜ非難や心無い声を浴びせられなければならないのか。

”なりたい自分になれ”と歌うキュートなアイドルソングの最後にポツリと漏らされる本音に、胸がチクリと痛みます。

社会体制、戦争...どうにもならないことに飲み込まれていく個人の生きづらさ。


一方、周囲と馴染めない大学生活や意にそぐわない就職など、自分の力次第で変えられることにポジティブな決断をする人たちの清々しい表情にはこちらまでハッピーな気持ちにもなります。


17年の再々演で追加された「ジュヴナイル」。なぜこの曲が追加されたのか今までよく分からなかったのですが(もちろん、尾崎豊が東京という場所で亡くなったからだということは分かるのですが)、今回の上演で”生きづらさ”というもうひとつのテーマを受け取ったことで、力尽きてしまった人たちへの鎮魂歌としてピタっとハマった感じがしました。


歌詞の人々に加えて、ここ数年のリアルタイムではエイミー・ワインハウスやアヴィーチーなど、向こう側に行ってしまう人のニュースを聞くたびに、何も持たない自分は「なぜ」と思ってしまうのですが、助けを求めるのは死ぬことよりも難しいことなのでしょう。

最近『ロケットマン』を見たので、エルトン・ジョンが分岐点で踏み止まれたことに心から尊敬の思いが湧いてきました。


今回はDawn(夜明け)とDusk(夕暮れ)というチーム分けになりました。

両チーム観劇して、ガールズの雰囲気がチーム名に引っ張られてるようで面白いなぁ、と。

Dawnは沙穂ちゃんがキラッキラの太陽、みゆちゃんが朝の訪れを告げながら飛び回る小鳥、さやかちゃんは爽やかに引き締まった朝の空気、みたいな。

それが全体として元気な空気を生み出していて、「さぁ、これから頑張るぞ!」という明るい気持ちになりました。


Duskは風花ちゃんが疲れを癒すスウィーツ、まりちゃんが一息入れるときに飲みたいパッと弾ける炭酸飲料、彩花ちゃんが思わず足を止めてしまうような全てを温かく包みこむピンクの夕焼け空、かな。

こちらのチームは穏やかにリラックスした雰囲気。スーパーダンサーが2人いるのになんだか不思議。


でも、たぶんこれはその日のコンディションや観客とのコネクト具合で見る人によっては反対の感想にもなったりするのかも。


19年版ではDawnとDuskで曲によって例えばMan1がMan2の歌を歌うなどチームごとのサプライズがあって「こう来るか!」という驚きがありました。Duskの方が意外性があったかも? 


Dawnは適材適所でパッケージとして完璧。特に若松渓太くんは過去5〜6人見ているけれど歴代最高のワンコでした。

Duskは「で、ミゼラブル」が共演者と結婚した小此木まりちゃんが歌い、あの役に某ミュージカル本役である清水彩花ちゃんを配置するというメタofメタの世界線。最強。


ソングサイクルは曲の中に役としての演出とその役者自身のパーソナリティが共存するのが面白いところ。『sign』では、例えば役名が”竹久夢二”とか”松井須磨子”とは表記されません。

6人の男女がそれぞれの役割を担って、1曲の中にそれぞれの表現を落とし込んでいく。


西川大貴くんの担当は、17年上演時と変わらず「coffee」「夢追ひ」「ジュヴナイル」。

喫茶店に流れる心地よい軽いジャズのリズムに少しセンチメンタルな歌詞がマッチする「coffee」。”彼”が経験した甘い恋とほろ苦い思い出をいつのまにか隣のテーブルで聞いているような距離感にする西川くんの引き込む力に思わずニコニコしてしまう幕開け。


「夢追ひ」の色気ダダ漏れっぷりは心拍数がヤバくなるレベル。

何もかもが上手くいって順風満帆な状態ではなく、自分を形作っていた大切な何かを失ってしまったときの男性というのは色気の塊だと思うのですが、まさしく夢二がミューズであるお葉から別れを告げられる場面で、崩れた雰囲気から放たれる艶っぽい歌声は特筆モノ。

愛しているからこそ夢二から離れようとするお葉の凛とした強さと、愛の夢の中で生きたい夢二の想いが交錯する力強いデュエットに心がギュッと掴まれました。


「ジュヴナイル」は、先述したように私は鎮魂歌だと受け取っているのでこの世で苦しんだ先人たちの安息を願う曲だと思うのですが、一方で彼らを反面教師としてたった一度の人生を生き抜け!というその他大勢へのエールにもなっているのだな、とも思ったり。回によって激しさを感じることも優しさを感じることもあったのは、歌声の中にそのような思いが込められていたからなのかな...。


大好きな野球を題材とした「MVP」や「ボヘミアン・ラブ!」でノリノリで踊っていたり、「で、ミゼラブル」でレミゼパワーを遺憾無く発揮していたり、「TKS」で怪しげな人物を

嬉々として演じていたりするなど、メイン以外でも見どころいっぱい。

特にDawnチームは全員が揃ったときの陽のパワーが眩しいほど。


ご贔屓さんが出演すると嬉しいし、今まで見たことがなくても出演した役者さんのファンになってしまう、それが『sign』という作品の魔力。

「Send Me A Sign」が「Seasons Of Love」に代わるミュージカルのアンセムになるよう、これからも上演を続けていってほしいと強く強く願っています。





2019年9月13日 (金)

ミュージカル『ドン・ジュアン』 9/4 18:30

@赤坂ACTシアター

S席1階A列20番台


ドン・ジュアン: 藤ヶ谷太輔

マリア: 蓮佛美沙子

ラファエル: 平間壮一

ドン・カルロ: 上口耕平

エルヴィラ: 恒松祐里

騎士団長/亡霊: 吉野圭吾

アンダルシアの女: 大石裕香

イザベラ: 春野寿美礼

ドン・ルイ・テノリオ: 鶴見辰吾


風間無限、鹿糠友和、仙名立宗

高瀬育海、俵和也、西田健二

MAOTO、宮垣祐也、渡辺崇人

弓野梨佳、小石川茉莉愛、島田友愛

鈴木百花、谷須美子、則松亜海

花岡麻里名、平井琴望、松島蘭


潤色・演出: 生田大和(宝塚歌劇団)

作詞・作曲: フェリックス・グレイ


プレイボーイの代名詞としてドンファン(ドンジュアン)という単語は聞いたことがあっても内容はよく知らなかったし、今回も原案になった戯曲は読んでいません。

例えば厳格な父の支配から逃げるためとか、その父が隠して色事に耽る姿を見てしまった反発からとか、亡くなった母の面影を探してとか、むしろ母を1人の女性としか見られなかったからとか、結ばれることのない姉妹への思いを断ち切るためとか、最初の恋人を納得できない形で奪われたからとか(全部私の妄想)... このミュージカルでは、なぜドンジュアンが手当たり次第に女に手を出しているのかという理由や過去は描かれません。

女に出逢い、抱き、捨てる。それがドンジュアンという男。そこに愛はなかった。


一方、ドンジュアンと一夜をともにした修道女エルヴィラはそれを愛だと認識して彼を追いかけてきた。

ドン・カルロは一途なエルヴィラの姿に胸を打たれ、また、人の行いから逸した友の心配をしている。

イザベラは”女”として彼を見守る。

ドン・ルイ・テノリオはエルヴィラを利用してドンジュアンを家に戻そうとする。そのやり方はある意味汚いが、息子の身を案じる気持ちは本物だ。

ラファエルはマリアとの結婚を決め高揚している。ただしマリアは結婚するに際して自分の仕事を、芸術を諦めることに納得がいっていない。マリアは彫刻を愛している。


最愛の娘をドンジュアンに乱暴に扱われ、彼に殺された騎士団長は亡霊となり、ドンジュアンに呪いをかける。

ドンジュアンの周囲は、彼がそれまで持つことのなかったさまざまな”愛”の形で満ちていた。


愛を知らない男と、一方的な愛に疑問を感じた女が呪いによって出逢い、呪いによって惹かれあい、呪いによって愛を誓い合う。


究極の愛はきっと神があたえたもう赦しなのかもしれないけれど、人間が人間に抱く愛は人間の数だけあるのかもしれません。

そして、その愛を邪魔するものに対して嫉妬の心を持つことも人間ならば当然の感情なのでしょう。


絶望に突き落とされたエルヴィラはマリアに嫉妬しラファエルを煽り、ラファエルは恋人を奪い去ったドン・ジュアンに嫉妬し決闘を申し入れ、ドン・ジュアンは自分以外の人間がマリアと心を通わせたことがあるという事実にショックを受けラファエルに嫉妬心を剥き出しにする。


かつて神に仕えた身であるエルヴィラは自分の行いが神の思し召しにそぐわないものだとすぐに気がつき懺悔する。

市井の人間として生きてきたラファエルはマリアの愛を取り戻そうとする。

ドン・ジュアンは己の中に目覚めた嫉妬心を通じてようやく愛を失うことへの恐怖や悲しみ、怒りといった人間としての感情を獲得していく。

愛は幸せ。しかしその一歩先に、またその裏返しに、恨みや憎しみといった多くの負の感情が渦巻いている。


亡霊はその具現化した存在であり、呪いをかけて反語的にドン・ジュアンに愛の尊さを知らしめ、彼を人間として死なせた。


マグダラのマリアは”罪深い女”と言われ、(エルヴィラが台詞で示唆するように)その文言が彼女を娼婦なのではないかと見る向きもあったようです。しかし今では、その推察は否定され、聖書の記述から彼女は心からイエスを愛していた人物だと言われるようになった。そしてある福音書には復活したイエスが最初に現れたのはマグダラのマリアの前と書かれているそう。

ドン・ジュアンは刺されてそのまま死ぬけれど、最期に人間として生まれ変わった一瞬をマリアの前で迎えられたことに彼女の存在の意味があったのかも。


亡霊を演じた吉野圭吾さん!

彼がいなければこの作品はありえなかったと思います。扮装で異質であることはもちろん、手の動き、首の角度、足を踏み鳴らす音の激しさ...言外で情報を伝えるということにこれだけ長けた人は他にいないのではないでしょうか。


春野寿美礼さんの艶やかさはこの作品に色を生み出し、平間壮一くんの涙は熱を与えていました。

上口耕平くんはある意味ストーリーテラー的な役割も担いつつ、いわゆる常識人であるカルロを硬質に演じていたと思います。

フラメンコの振付、実は苦手なのかな?と思ったのですが、スパニッシュな雰囲気を醸し出すアンサンブルの前で彼が踊ることでカルロがドン・ジュアンに対して感じていた違和感みたいなものを表しているようにも見えました。

個人的に本人の内面にも通じるものがあるのか、耕平くんは内向的とまではいかないけれど真面目もしくは堅物と言われる(見える)役柄に適性があるように感じます。

また寿美礼さんとのデュエットなど、歌の面で作品を引っ張っていたのは頼もしい限り。


スターシステムの宝塚から持ってきた(もとは海外作品ですが)作品にジャニーズというブランドをぶつけたのは最適解だったのではないでしょうか。

藤ヶ谷くんのファンの皆様にとってはなかなか刺激的な役柄ではありますが、ある意味周囲と群れない役柄というのはミュージカル経験がない中での初主演にプラスに働いたのではないかと思います。


『ドン・ジュアン』は愛の物語であるのと同時に人間らしさとは何かを問いかけており、スカッと明快なミュージカル!とは言い難いけれど、素晴らしく有能なダンサー陣の群舞によってかっこいいエンターテイメントとして成立していました。

あれをマチソワやっているなんて恐ろしいな...。





2019年8月20日 (火)

ミュージカル『SMOKE』7/28, 8/8, 16, 18

@浅草九劇


7月28日 E 大山真志/木内健人/池田有希子

8月8日 N  木暮真一郎/木内健人/池田有希子

8月16日 N 日野真一郎/木内健人/元榮菜摘

8月18日 S 日野真一郎/木内健人/高垣彩陽

(日付/ブロック/超/海/紅)

上演台本・作詞・演出: 菅野こうめい


煙(SMOKE)は消えてしまうもの。はかないもの。そんなイメージを持つ。

しかし、煙は何もないところには出てこない。そこには発生源となる何かがあるもの。

海=李箱(イ・サン)は、燃える炎だった。彼の感じた希望や絶望、理想としたもう1人の自分が煙となって立ち上っていった。


人は歴史の中で霞のように消えてしまうけれど、炎の燃えかすはどこかに残る。

李箱の詩は後世の世界であまねく知られることはなかったかもしれないけれど、こうやって彼の人生をモチーフにしたミュージカルが出来たように。


夢と絶望は表裏一体。

夢を持つことが生きる希望となる一方、破れたときには絶望に叩き落される。

そして、生きることと(自ら)死ぬことは同じだけの熱量があるのだということ。エネルギーがはたらく方向が正反対なだけ。


同時期にTipTapの『フリーダ・カーロ』という作品を見ました。

フリーダはバスの事故により大怪我を負い、後遺症に苦しみ何回もの手術を受ける。また、せっかくお腹に宿った命も怪我の影響で流産してしまう。それでも生涯に渡り男女多くの恋人と愛を交歓し、絵を描き続けた。


『フリーダ・カーロ』の劇中では、フリーダの心象を歌う紅いドレスを着たSingerという役割、つまりもう1人のフリーダがいて、これを見たときに『SMOKE』の中でなぜ”紅”は”紅”なのか、その答えのひとつが分かったような気がしました。

セリフには「太陽の赤」とあるけれど、”紅”は血の色なのだ、だから”紅”なのだ、と。

そして、フリーダが絵を描き、事あるごとに「私を忘れないで」と歌うのは、彼女の願いに翼をつけているのだとも思いました。

むせ返るような血と生の匂いの先にある死を描いた『フリーダ・カーロ』と、生と死は等しいものだと私が感じた『SMOKE』は、一見正反対なんだけれど、創作を通じて飛ぼうとした人物を描いているということも似ているのかもしれません。


また、フリーダは死の数日前にスイカの絵を描いたというエピソードがあるのですが、”海”の「(最期には)千疋屋のメロンを食べて筆を措こう」(うろ覚え)という台詞のリンクにもなんだかビックリ。

この2作品を同時期に見られてよかったと思いました。


誰にも自分の作品を理解されず、病状は悪化し、母国語を誇ることもできない世界情勢。止めたい、この苦しみから解放されたい、死にたいと願ってもなお、李箱の中に流れ続けるのは紙とペンがあったら何かを書いてしまう衝動。

海はすべての命の源。生み出す存在だからこそ、彼は”海”であり、海を目指すのだ。


落ちて落ちて落ちた深海は真っ暗かもしれないけれど、たとえ他から見えない光でも自分が光ることを選んだ木内”海”の変化に千秋楽は涙が止まらなくなりました。


”超”と対峙するときの”海”は自分の中の醜いもの、禍々しい感情を全て引きずり出しているような痛々しさがあり、彼を苦しめているのは周囲の目ではなく本人なのだということがとても辛くて、だからこそ自分の生き様を肯定する最後が輝いて見えました。

笑顔で語られる李箱の言葉には翼があり、ラストに上から降ってくる原稿もまた翼の一部なのでしょう。木内”海”のポージングの美しさよ...。


私は木内健人くんのファンなので、”海”は全部健人くんで見ています。

“海”と”紅”が踊る場面、健人くんがリード気味になることによって、記憶はなくしているけれど無意識のうちに昔のように身体が動いている年相応の”海”と少年の”海”が1つの身体の中に存在しているような危うさがあって好きなシーン。


たびたび”セッション”と称されるように”超”の3人、”紅”の3人と、各回ごとに組み合わせが違う上演スタイル。ともすればそれぞれの勢いがぶつかり合い増幅し合い転がってしまう危険性があるのですが、健人くんは聡明さと素直さと無邪気さを併せ持った序盤から、記憶を取り戻してもう1人の自分である”超”と激しく格闘する中盤〜後半、そして自分を愛し受け入れる終盤、毎回そこに至るまでの道筋を丁寧に真摯に演じていました。

私はそういう俳優が大好きです。


ラッキーなことに他の全キャストも見られたので、思ったことを少しだけ。あくまでも、その日に見た私の感想ですので悪しからず。

大山”超”はまさに”海”と合わせ鏡というか同じものを抱えていたように見えて、木暮”超”は他の2人より落ち着いていて”海”の理想形になろうとした存在で、日野”超”の鋭さはむしろ海の弱い部分を引き受けてしまって苦しんでいるからに見えました。


池田”紅”と元榮”紅”はわりと似たデザインのワンピースだけど、高垣”紅”は素材違いのドッキングワンピースで衣装だけ見ると2人とかなり違う印象で、そこに何か意味があるのか深読みしたくなったり。

池田”紅”は激しく焚きつける熱風、元榮”紅”は凛としてそこに在る変わらないもの、高垣”紅”は人の柔らかい部分を包み込みもすれば傷つけもする人間に近い存在のようでした。


健人くんの千秋楽のカテコに立ち会えました。挨拶で「この『SMOKE』をやったことは、今後自分が役者を続けていく上で核になる」(概意)と話していたのですが、これほどまでに自分の役について考え抜く経験をしたことは木内健人という役者を数段上のステージに押し上げたと思います。


難解なメロディーも多々あるのに、ふと頭の中に入り込んでくる中毒性のある曲の数々。

四方からギュッと取り囲んで見る濃密な空間。

記録的な暑さとともに、2019年夏に浅草九劇で見た『SMOKE』は忘れられない作品になりました。














«三宅裕司 & Light Joke Jazz Orchestra with special guest 中川晃教